山内豊健
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山内 豊健(やまうち とよたけ、1903年〈明治36年〉8月16日 - 1946年〈昭和21年〉1月10日)は、大正・昭和初期の武道家、京都山内派長谷川英信流居合術の第18代宗家、陸軍少尉、従四位、子爵。山内容堂の孫[1]。戦前の名剣士の一人。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]明治36年(1903年)8月16日、子爵・山内豊尹の二男として、東京市三河台町に生れる[1]。
幼少期は高知に居住し、海南中学校(現・小津高校)に学ぶ[1]。剣道と書道を得意とし、居合は幕末に祖父・山内容堂が修めた無双直伝英信流を、第17代宗家・大江正路より指導を受け、免許皆伝を受ける。
襲爵
[編集]大正7年(1918年)、兄・山内豊陽の隠居に伴い、東京へ居を移し子爵を襲爵[2]。
師範として
[編集]大正9年(1920年)、大日本忠孝館道場において柳生神影流第10代宗家・久保義八郎より『阿州柳生神影流兵法剣術』の免許皆伝を受け、また大日本武徳会より剣道錬士の称号を授与さる[1]。
京都に居を移し、武道専門学校において剣道および居合を指導。また善通寺師団、東京の明武館、埼玉の正明中学校でも剣道・居合を教えた。書は三楽書道会、龍崎書道会などに属す[1]。
昭和10年(1935年)、北海道出身の片石アサ子と婚姻[1]。
昭和13年(1938年)、谷田佐一と共に『図解居合詳説』を著す。
昭和16年(1941年)、大東亜戦争に際し応召出征。善通寺騎兵連隊に配属さる。陸軍少尉。
昭和20年(1945年)8月15日、玉音を拝し終戦。引揚船の中でチフスに罹患。
昭和21年(1946年)1月10日、岐阜川崎病院にてチフスにより病歿。享年44歳。
家族
[編集]- 祖父:山内容堂
門下
[編集]京都山内派の居合の伝系としては、第17代宗家・大江正路、第18代・山内豊健、第19代・河野兼光、第20代・尾上政美、第21代・関口高明などが知られている。
弟子
[編集]- 河野兼光
- 三谷義里
- 井下經廣
- 宇野又二
孫弟子
[編集]- 山越正樹
- 木村幸比古(豊剣会会長)
- 加茂治作
著書
[編集]- 『図解居合詳説』山内豊健、谷田左一共著、秋文堂、昭和13年
- 『京都山内派無雙直傳英信流居合術』山内豊健、宇野又二 伝、山内豊臣監修、山越正樹編、京都山内派出版局、2002年
補註
[編集]参考文献
[編集]- 『英信流居合と板垣伯』岡林九敏著(所収『土佐史談』第15号)
- 『師伝芥考・土佐の英信流』岩田憲一著、1984年(昭和59年)
- 『江戸期の土佐における居合関係史』
- 『土佐武道史話』平尾道雄著、1961年、高知新聞社
- 『高知県人名事典』高知新聞社
- 『人事興信録』(第九版、昭和6年)「山内豊健」項
- 『土佐名家系譜』寺石正路撰、1942年
- 『板垣精神』一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 編纂、2019年、ISBN 978-4-86522-183-1 C0023
日本の爵位 | ||
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先代 山内豊陽 | 子爵 (高知)山内家(分家)3代 1918年 - 1946年 | 次代 栄典喪失 |