平田義正
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人物情報 | |
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生誕 | 1915年5月30日 日本山口県山口市 |
死没 | 2000年3月5日 (84歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 化学(天然物化学) |
研究機関 | 東京帝国大学、名古屋帝国大学 |
平田 義正(ひらた よしまさ、1915年5月30日 - 2000年3月5日)は日本の天然物化学者である。名古屋大学名誉教授。
経歴
[編集]1915年、山口県山口市生まれ。山口高等学校理科甲類を卒業し、1938年に東京帝国大学理学部化学科に入学。1941年に卒業した。卒業研究および同大学大学院においては、有機化学の久保田勉之助教授(ポール・サバティエ門下)の下で黄変米の有毒成分を研究した。
1943年より、母校である東京帝国大学助手になる。1944年1月、名古屋帝国大学に理学部講師として着任し、6月には助教授に就任。太平洋戦争中の戦時下では、研究室疎開先の長野県上田市で江上不二夫の指導の下、乏しい物資の中で研究に当たった。
その後は抗生物質の研究を行うと共に、蚕の変異株の卵から発見した3-オキシキヌレニンの構造決定と合成の功績により1951年に中日文化賞を受賞[1]。1949年12月名古屋大学理学博士。「キノコの抗菌性物質グリフォリンについて」。 1952年1月から1953年5月まで、ハーバード大学のルイス・フィーザー教授の下でステロイドの研究に従事した。帰国後の1954年4月、名古屋大学教授に昇任し、理学部化学科第三講座(有機化学)を担当した。以降、天然物の生理作用を有する極微量物質の分離・分子構造の決定において多大な成果を挙げ、特にフグ毒の分析に大きな功績を残した[2][3]。
受賞
[編集]栄典
[編集]門下生
[編集]平田義正は教育者としても優れ、門下から多数の有名研究者が巣立っている。岸義人、中西香爾、後藤俊夫、上村大輔、長瀬博、ノーベル化学賞受賞者の下村脩ら。また若き日の野依良治を名古屋大学に招聘し、有機化学の第一人者として育てた。
脚注
[編集]- ^ “中日文化賞 受賞者一覧”. 中日新聞. 2022年5月15日閲覧。
- ^ 後藤俊夫、高橋敞、岸義人、平田義正:フグ毒テトロドトキシンの抽出と精製日本化學雜誌 Vol. 85 (1964) No. 8 P 508-511,A40
- ^ Goto, T.; Kishi, Y.; Takahashi, S.; Hirata, Y. (1965). “Tetrodotoxin”. Tetrahedron 21 (8): 2059-2088. doi:10.1016/S0040-4020(01)98344-9.