持明院基規
ウィキペディアから無料の百科事典
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 明応元年(1492年) |
死没 | 天文20年9月1日(1551年9月30日) |
改名 | 家親→基規 |
別名 | 号:一忍軒 |
官位 | 正三位、権中納言 |
主君 | 後土御門天皇→後柏原天皇→後奈良天皇 |
氏族 | 持明院家 |
父母 | 父:持明院基春 |
子 | 基孝 |
持明院 基規(じみょういん もとのり)は、戦国時代の公卿。参議・持明院基春の子[1]。官位は正三位・権中納言。持明院家15代当主。
経歴
[編集]明応4年(1495年)には従五位下に任じられ、大蔵卿・参議・右衛門督を経て権中納言となる[1]。
最終的に正三位に任じられた[1]。この間に美濃国や周防国にしばしば下向した。従来、天文20年(1551年)の周防滞在中、陶隆房が主君・大内義隆を討った謀反(大寧寺の変)に巻き込まれ、殺害された[1]とされていたが、萩原大輔は『言継卿記』などの記述から、大寧寺の変で殺害されたのは義隆の装束の師であった従四位下・冷泉範遠あるいは冷泉隆豊の一族のことであると明らかにした[2]。
系譜
[編集]- 父:持明院基春
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:持明院基孝