朝響信親
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朝響 信親(あさひびき のぶちか、1897年1月3日 - 1960年2月22日)は、愛媛県西宇和郡三瓶町(現西予市)出身で高砂部屋に所属した大相撲力士。本名は宮本 延近。身長173cm、体重90kg。最高位は東前頭2枚目(1927年5月場所)。引退後は年寄佐ノ山として後進の指導につとめた[1]。
来歴
[編集]同郷の大関朝汐の佐ノ山部屋に入門し、1914年1月場所に初土俵を踏んだ。稽古熱心で順調に昇進し、1918年5月に、朝見藤と名乗って十両に昇進、1922年1月には朝見富士と改めて新入幕を果たした[1]。その間、師匠が亡くなったので本家の高砂部屋に移籍した。また、入幕後に朝響と改名している。
1926年5月場所、1927年1月場所と連続して8勝3敗と好成績を収めたのがピークであった。宮城山福松の土俵入りの際には太刀持ちを務めていた[1]。
幕内では地味な取り口で、横綱大関を破る殊勲もなかったが、それでも1929年まで20場所連続して幕内を保った。1929年5月、十両に落ちたところで連続全休して9月場所限りで引退、年寄佐ノ山を襲名した[1]。
引退後は長く高砂部屋で後進を指導していたが、1955年3月、独立して佐ノ山部屋を再興した。しかし、関取をだせないまま1960年2月に死去した。しかし、遺された弟子の中から、のちの幕内栗家山恵三が出た。
主な成績
[編集]- 通算成績:130勝127敗4分3預54休 勝率.506
- 幕内成績:75勝105敗2分2預32休 勝率.417
- 現役在位:38場所
- 幕内在位:20場所
場所別成績
[編集]春場所 | 三月場所 | 夏場所 | 秋場所 | |||
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1914年 (大正3年) | (前相撲) | x | 西序ノ口33枚目 5–0 | x | ||
1915年 (大正4年) | 西序二段61枚目 5–0 | x | 西序二段6枚目 4–1 | x | ||
1916年 (大正5年) | 西三段目44枚目 4–1 | x | 東三段目9枚目 4–1 | x | ||
1917年 (大正6年) | 東幕下43枚目 4–1 | x | 東幕下5枚目 3–2 | x | ||
1918年 (大正7年) | 西幕下筆頭 3–2 | x | 東十両12枚目 3–2 | x | ||
1919年 (大正8年) | 東十両5枚目 2–4 1預 | x | 東十両14枚目 3–1 1分 | x | ||
1920年 (大正9年) | 東十両7枚目 3–2 | x | 東十両6枚目 3–1 1分 | x | ||
1921年 (大正10年) | 東十両7枚目 4–1 | x | 西十両筆頭 5–3 | x | ||
1922年 (大正11年) | 西前頭14枚目 5–5 | x | 東前頭9枚目 4–4 2預 | x | ||
1923年 (大正12年) | 西前頭7枚目 3–7 | x | 東前頭15枚目 3–1–7 | x | ||
1924年 (大正13年) | 東前頭8枚目 5–5 | x | 西前頭7枚目 5–4–1 1分 | x | ||
1925年 (大正14年) | 西前頭2枚目 5–6 | x | 東前頭6枚目 4–6 1分 | x | ||
1926年 (大正15年) | 東前頭9枚目 4–7 | x | 西前頭10枚目 8–3 | x | ||
1927年 (昭和2年) | 東前頭7枚目 8–3 | 東前頭7枚目 2–9 | 東前頭2枚目 2–9 | 西前頭11枚目 0–2–9 | ||
1928年 (昭和3年) | 西前頭6枚目 6–5 | 東前頭15枚目 1–6–4 | 東前頭5枚目 3–8 | 東前頭5枚目 0–0–11 | ||
1929年 (昭和4年) | 西前頭15枚目 3–8 | 西前頭15枚目 4–7 | 東十両2枚目 0–0–11 | 東十両2枚目 引退 0–0–11 | ||
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
- 1924年5月の1休は相手力士の休場によるもの
四股名変遷
[編集]- 朝見藤 信親(あさみふじ のぶちか)1914年1月場所 - 1921年5月場所
- 朝見富士 信親(あさみふじ -)1922年1月場所 - 1923年5月場所
- 朝響 信親(あさひびき -)1924年1月場所 - 1929年9月場所