松平忠馮

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松平忠馮
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 明和8年5月6日1771年6月18日
死没 文政2年1月28日1819年2月22日
改名 秀太郎・又八郎(幼名)、忠馮
戒名 麗商院殿輯敏源軌大居士神祇
墓所 愛知県額田郡幸田町深溝の本光寺
官位 従五位下主計頭主殿頭
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
肥前島原藩
氏族 深溝松平家
父母 松平忠恕真田信安
兄弟 大久保忠邦大久保忠成花房職喬
秋元保朝忠馮忠堯忠良忠豫
梅渓通同室、土井利謙継々室、
松平信古正室、内田正肥室、
京極高賢正室、松平忠告
井伊直幸
寿、良、筆
井上正廬忠侯京極高景中西元歴
森川俊民忠篤真田幸忠、志賀、
板倉勝晥室、喜代
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松平 忠馮(まつだいら ただより)は、江戸時代中期から後期にかけての大名肥前国島原藩主。深溝松平家12代当主。官位従五位下主計頭主殿頭

生涯

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明和8年(1771年)5月6日、先代藩主(当時は下野国宇都宮藩主)松平忠恕の六男として誕生した。兄たちは庶出で他家に養子入りしたため、正室の子の忠馮が世子となり、天明7年(1787年)12月18日に従五位下・主計頭に叙任される。寛政4年(1792年)、父が雲仙岳眉山の大爆発による心労で急死したため、家督を継いだ。

忠馮は雲仙岳の爆発による領民の救済のため、幕府から1万2,000両を借用し、さらに衣類取締令・奢侈禁止令などを出して出費を抑制し、苦しくなっていた藩財政の再建も目指した。文化期に入ると外国船の来航が問題になり始めたため、海防の強化を行なっている。しかし相次ぐ天災や海防問題などから財政はさらに悪化したため、忠馮は橋爪宗平板倉勝彪を登用して藩政改革を行なった。文化7年(1810年)6月には三府会議制を創設し、これにより大坂商人との取引などを行なった。文化8年(1811年)には国産方役所を設置して専売制を始め、文化9年(1812年)には公事方役所を設置して裁判の迅速化を図った。

文化13年(1816年)、板倉勝彪が「御内定書上表文」を提出し、財政再建のために家臣団のリストラが必要であると訴えたが、忠馮は存命中は受け入れなかった(死後の文政8年(1825年)からリストラが始まる)。農民政策に関しても、文化11年(1814年)に農民永保法を制定して百姓関係の土地整理を行なった。学問関係では、寛政6年(1793年)9月に藩校・稽古館を創設している。

松平忠馮の墓(幸田町本光寺)

このように改革が実りつつあった中での文政2年(1819年)1月28日に死去した。享年49。家督を四男の忠侯が継いだ。

系譜

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父母

正室

側室

  • 寿

子女

脚注

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