業良親王
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業良親王 | |
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時代 | 平安時代初期 - 前期 |
生誕 | 不詳[1] |
薨去 | 貞観10年正月11日(868年2月8日) |
官位 | 無品無官 |
父母 | 父:嵯峨天皇、母:高津内親王 |
兄弟 | 仁子内親王、業良親王、業子内親王、有智子内親王、仁明天皇、正子内親王、源信、源貞姫、源潔姫、源弘、源全姫、源常、源寛、源明、源善姫、源定、基良親王、基子内親王、秀良親王、秀子内親王、忠良親王、俊子内親王、芳子内親王、繁子内親王、宗子内親王、純子内親王、斉子内親王、源生、源安、源融、源鎮、源啓、源勤、源清、源勝、他 |
子 | 寧内王、正内王 |
業良親王(なりよししんのう)は、嵯峨天皇の第二皇子[2][3]。
経歴
[編集]母の高津内親王は、大同4年(809年)嵯峨天皇の即位とともに妃に立てられるが、間を置かずして廃される。高津内親王が妃を廃されてまもなくと考えられる弘仁6年(815年)には、業良親王に備前国津高郡の荒廃田19町が下賜されている。
親王も生涯を通して叙品されることなく、無品のまま貞観10年(868年)1月11日に薨去した。飲食も普段通りで、とりたてて病気にもかかっていなかったが、急に没したという[2]。薨去に際して清和天皇は3日間の廃朝を行った。
人物
[編集]精神的に不安定で、物事を識別判断する能力を備えていなかった[2]。