水島武蔵
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名前 | ||||||
カタカナ | ミズシマ ムサシ | |||||
ラテン文字 | MIZUSHIMA Musashi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 ブラジル | |||||
生年月日 | 1964年9月10日(60歳) | |||||
出身地 | 東京都[1] | |||||
身長 | 177cm[2] | |||||
体重 | 72kg[2] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW / MF | |||||
ユース | ||||||
1972-1974 | 清水市立辻小学校[3] | |||||
1974 | 清水市立江尻小学校[4] | |||||
1973-1974 | オール清水[4] | |||||
1975-1984 | サンパウロ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1984-1986 | サンパウロ | |||||
1986 | → サンベント (loan) | |||||
1987-1988 | ポルトゥゲーザ | |||||
1988 | サントス | 1 | (0) | |||
1989-1991 | 日立製作所 | 19 | (6) | |||
1991-1992 | 全日空/横浜フリューゲルス | 3 | (0) | |||
通算 | 23 | (6) | ||||
監督歴 | ||||||
2001-2003 | 横浜FCユース | |||||
2014 | 藤枝MYFC | |||||
2016-2017 | 日本経済大学 | |||||
2018-2019 | U-19カンボジア | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
水島 武蔵(みずしま むさし、1964年9月10日 - )は東京都出身の日本の元サッカー選手、サッカー指導者である。選手時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー。10歳の時に父親の勧めによりブラジルにサッカー留学し、1984年に日本人として初めて同国でプロ契約を結んだ[5]。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]1964年、東京都で生まれた。サッカーファンだった父の影響で3歳の時にサッカーを始めると5歳の時には小学6年生のチームに交じってプレーをするなど頭角を現し[1]、より良いサッカー環境を求めて1971年に日本国内でサッカーどころと呼ばれ、父の郷里でもある静岡県藤枝市の藤枝市立藤枝小学校へ転校した[4]。その際に下宿先になったのが後にサッカー日本代表となった碓井博行の実家だった[6]。一方、藤枝では小学1年生から2年生の練習参加は認められてはいなかった[7]。
1972年、元サッカー日本代表の杉山隆一の紹介を受けて清水市の清水市立辻小学校へと転校した[3][8]。辻小学校のサッカー少年団は国内においてトップレベルの実力を有していたが[4]、水島は小学3年生の時点で上級生と対等に渡り合える技術を有していたという[4]。さらに清水市内の選抜チームであるオール清水(清水FCの前身)に選出され、1学年上の望月達也らとプレーをした[7]。
ブラジル留学
[編集]1974年11月、「サッカーの王様」ことペレが訪日し東京の国立霞ヶ丘競技場陸上競技場で全国のサッカー少年を集めてサッカー教室を催した際、水島は優れた技術を見せて注目を集めるとペレから直に評価を受けた[9]。同年末に東京都世田谷区内の小学校に転校すると1975年2月にはブラジル留学の準備のために日本サッカーリーグ1部の永大産業サッカー部の練習に参加し[10]、同年4月に姉と共にブラジルへと渡った[9]。
1975年4月、10歳の時にサンパウロFCの下部組織に入団した[11]。留学の実現とサンパウロ入りにはサッカー指導者のネルソン松原が関わっており、ペレの古巣であるサントスFCの下部組織への入団は年齢的な問題のために断られたため、サンパウロの下部組織への入団を橋渡しした[12]。なお、水島は日本人少年がブラジルにサッカー留学をした初の事例とされており、1980年代には三浦知良らが続いた[11]。
水島は知人宅に下宿し現地の学校に通いながらプロを目指す生活を送ることになったが[5]、12歳前後の少年を対象とした「デンチ・デ・レイチ」では各種大会で得点王、最優秀選手、テクニカ賞を獲得するなど頭角を現した[9]。通常であれば「デンチ・デ・レイチ」から上のクラスの「デントン」に昇格することになるが、1978年にサンパウロの歴史上はじめて飛び級での「ジュベニール」(18歳以下)への昇格を果たし同部門のキャプテンを務めた[9]。さらに「ジュニオール」(20歳以下)へと昇格した[13][14]。
選手経歴
[編集]1984年9月3日、サンパウロFCとプロ契約を結んだ[13][14]。一方、当時のブラジルでは外国人選手枠を1クラブにつき1人に制限しており、サンパウロには既にウルグアイ代表のダリオ・ペレイラが守備の中心を担っていた[14][15]。そのため水島はブラジル国籍を取得し、帰化した上で本契約を結ぶことになった[14][15]。ポジションはボランチで首脳陣からは守備能力だけでなくパスセンスも評価をされての契約となったが[15]、当時のチームメイトのカレカは「武蔵は右ウイングを務めていた」と証言している[16]。サンパウロとの契約は2年間だったが[13]、当時のチーム内にはブラジル代表のカレカやオスカーやファルカン、同年代の若手ではミューレルやシーラスらが在籍しており、多くの出場機会を得ることは出来なかった[5][16]。
1986年3月、サンパウロとの契約を更新し同年12月までサンパウロ州リーグ1部のECサンベントへレンタル移籍することが決まった[17]。同年3月9日に行われたUAE代表との親善試合でデビュー[17]、ブラジルサッカー連盟との手続きの都合により公式戦出場を見合わせられていたが4月19日に行われたパルメイラス戦で公式戦デビューを果たした[17]。その後はポルトゥゲーザ、サントスFCへ移籍しプレーを続けた[16]。
1989年7月、日本サッカーリーグ1部の日立製作所サッカー部(後の柏レイソル)に移籍した[18]。この移籍は水島が以前から日立への加入を希望していたことにより実現したもので[18]、ブラジル国籍を所持していたため外国人枠の扱いでの出場となった。同年10月1日、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場で行われたJSLオールスターサッカーではチームメイトのゼ・セルジオと共にEASTの選手として出場した[19]。
1991年に全日空サッカークラブに移籍[5]。1992年には全日空の後身の横浜フリューゲルスでもプレーをしたが、怪我の影響もあり同年限りで現役を引退した[5]。
引退後
[編集]引退後は指導者の道へと進み1993年にブラジルのサンパウロ州コーチ組合(ポルトガル語: SITREPESP)の指導者ライセンスを取得[20]。1994年から横浜市で少年向けサッカースクール「FCムサシ」(旧ムサシサッカーアカデミー)を運営している[20]。
2001年から2003年にかけて横浜FCユース初代監督[20]、横浜FCテクニカルディレクターなどを務め、2006年9月に日本サッカー協会公認S級コーチに認定された[20]。
2014年、藤枝MYFCの監督に就任した[21]。同年11月23日、2014シーズン限りでの退任が発表された[22]。
2016年4月、九州大学サッカーリーグ1部の日本経済大学の監督に就任[23]。2017年に退任した[24]。
2018年2月、日本サッカー協会のアジア貢献事業の一環として、カンボジアフットボールアカデミーコーチ兼U-19カンボジア代表監督に就任し[25]、2019年1月31日付けで退任[26]。
2019年2月1日、U-17タジキスタン代表のアシスタントコーチに就任した[26]。
人物
[編集]- 少年時代については、集英社から1981年1月に『ムサシ17歳世界へ翔ぶ』のタイトルで刊行された単行本(翌年5月集英社コバルト文庫化)に詳述されている。
- 1981年から1988年にかけて『週刊少年ジャンプ』で連載された漫画『キャプテン翼』の主人公・大空翼のモデルといわれている[16][27]。作者の高橋陽一は主人公の翼のモデルについて明確に存在はしないとしつつ、水島を参考の一つとしたと証言している[28]。
所属クラブ
[編集]- 1972年 - 1974年 清水市立辻小学校
- 1974年 清水市立江尻小学校
- 1973年 - 1974年 オール清水
- 1975年 - 1978年 サンパウロFCデンチ・デ・レイチ
- 1978年 - 1984年 サンパウロFCジュベニール / ジュニオール
- 1984年 - 1986年 サンパウロFC
- 1987年 - 1988年 アソシアソン・ポルトゥゲーザ・ジ・デスポルトス
- 1988年 サントスFC
- 1989年 - 1990年 日立製作所サッカー部
- 1991年 - 1992年 全日空サッカークラブ/ASフリューゲルス
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
1984 | サンパウロ | 全国選手権A | |||||||||
1985 | |||||||||||
1986 | サンベント | ||||||||||
1987 | ポルトゥゲーザ | 全国選手権A | |||||||||
1988 | |||||||||||
1988 | サントス | 1 | 0 | ||||||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1989-90 | 日立 | 8 | JSL1部 | 12 | 0 | 0 | 0 | ||||
1990-91 | JSL2部 | 7 | 6 | 0 | 0 | ||||||
1991-92 | 全日空 | 26 | JSL1部 | 3 | 0 | 0 | 0 | - | 3 | 0 | |
1992 | 横浜F | - | J | - | 1 | 0 | |||||
通算 | ブラジル | 全国選手権A | |||||||||
日本 | J | - | 1 | 0 | |||||||
日本 | JSL1部 | 15 | 0 | 0 | 0 | ||||||
日本 | JSL2部 | 7 | 6 | 0 | 0 | ||||||
総通算 |
- JSL(1部)初出場:1989年10月9日 対フジタ工業戦(西が丘サッカー場)
- JSL(2部)初得点:1990年10月3日 対川崎製鉄戦(日立柏総合グラウンド)
その他の公式戦
- 1991年
- コニカカップ 2試合0得点
指導歴
[編集]- 1994年 - 2009年: FCムサシ U-8〜U-12 監督、コーチ[24]
- 2000年 - 2003年: 横浜FCユース 監督[24]
- 2010年: イトゥアーノFC ヘッドコーチ[24]
- 2014年 : 藤枝MYFC 監督[24]
- 2016年 - 2017年 : 日本経済大学 監督[24]
- 2018年2月 - 2019年1月: カンボジアフットボールアカデミー コーチ[26]
- 2018年2月 - 2019年1月: U-19カンボジア代表 監督[26]
- 2019年2月 - : U-17タジキスタン代表 アシスタントコーチ[26]
タイトル
[編集]クラブ
[編集]- サンパウロFC
- カンピオナート・パウリスタ : 1回 (1985)[29]
脚注
[編集]- ^ a b 「サッカーの本場ブラジル 初の日本人プロ誕生 留学9年の水島選手」『朝日新聞』 1984年9月5日 14版16面。
- ^ a b 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』小学館、1992年、48頁。ISBN 4-09-102301-0。
- ^ a b 草鹿 1982、201頁
- ^ a b c d e 草鹿 1982、62-63頁
- ^ a b c d e “続・ブラジルサッカーを支える人々 (4) 藤枝MYFC監督の水島武蔵氏”. サンパウロ新聞. 2014年5月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年6月8日閲覧。
- ^ 武田薫「渇えし者たちの夢 RoundIV-1 水島武蔵」『朝日ジャーナル』 1989年10月6日号、朝日新聞社、95-97頁。
- ^ a b 梅田明宏『礎・清水FCと堀田哲爾が刻んだ日本サッカー五〇年史』現代書館、2014年、143頁。ISBN 978-4-7684-5716-0。
- ^ 草鹿 1982、52頁
- ^ a b c d 「サッカーブランド物語 4 日本人初の南米プロ ムサシを支え続けたランパード」『サッカーダイジェスト』 1985年4月号、104-105頁。
- ^ 草鹿 1982、79頁
- ^ a b 佐藤美由紀監修、ブラジル日本商工会議所 編『現代ブラジル事典』新評論、2005年、393頁。ISBN 4-7948-0662-0。
- ^ ““サッカーの王様”の秘技 サンバと熟したマンゴーでのリフティングから生まれた!! 映画「ペレ 伝説の誕生」”. 産経ニュース (2016年6月26日). 2016年10月5日閲覧。
- ^ a b c 「南米サッカーに初の日本人プロ 9年の武者修行実る」『読売新聞』 1984年9月5日 14版16面。
- ^ a b c d 「ニュースダイジェスト」『サッカーダイジェスト』 1984年12月号、106頁。
- ^ a b c 「海外ホットニュース ブラジル」『サッカーマガジン』 1984年12月号、153頁。
- ^ a b c d “Jogador japonês do São Paulo inspirou anime que popularizou clube no Japão”. ND Online (2013年8月6日). 2017年4月11日閲覧。
- ^ a b c 「ムサシ、公式戦に常時出場のチャンス!!」『サッカーダイジェスト』 1986年7月号、146頁。
- ^ a b 「JSLネットワーク」『ストライカー』 1989年9月号、128頁。
- ^ 日本サッカーリーグ 編『'90-'91 日本サッカーリーグ・イヤーブック』日本サッカーリーグ、1990年、156-157頁。ISBN 4-523-31029-7。
- ^ a b c d “4.平成17年度公認S級コーチ養成講習会判定結果の件”. 日本サッカー協会 (2006年9月). 2014年2月12日閲覧。
- ^ “2014スタッフ新体制につきまし”. 藤枝MYFC (2014年1月7日). 2014年1月7日閲覧。
- ^ “水島武蔵監督退任のお知らせ”. 藤枝MYFC (2014年11月23日). 2014年12月12日閲覧。
- ^ “サッカー部監督に水島監督(元Jリーグ監督)が就任”. 日本経済大学 (2016年4月28日). 2016年10月5日閲覧。
- ^ a b c d e f “アジア貢献事業 海外派遣指導者 プロフィール” (PDF). 日本サッカー協会 (2018年1月18日). 2018年3月14日閲覧。
- ^ “日本人指導者がカンボジア、フィリピンに赴任”. 日本サッカー協会 (2018年2月5日). 2018年3月14日閲覧。
- ^ a b c d e “JFA公認指導者の海外派遣”. 日本サッカー協会. 2019年4月28日閲覧。
- ^ “J3藤枝 新監督に“キャプ翼モデル”水島武蔵氏就任が濃厚”. スポニチ Sponichi Annex (2014年1月6日). 2014年2月12日閲覧。
- ^ “ムービー”. キャプテン翼 激闘の軌跡 公式サイト. 2014年2月9日閲覧。
- ^ “Ranking histórico: Estrangeiros”. São Paulo Futebol Clube (2014年12月24日). 2017年4月11日閲覧。
参考文献
[編集]- 草鹿宏『ムサシ17歳世界へ翔ぶ』集英社、1982年。ISBN 4-08-610493-8。
- 日本サッカーリーグ編『1990-1991JSLイヤーブック』、南雲堂、1990年 ISBN 4-523-31032-7
- 日本サッカーリーグ編『1991-1992JSLイヤーブック』、南雲堂、1991年 ISBN 4-523-31033-5
- 日本サッカーリーグ編『日本サッカーリーグ全史』、1993年
- 『Jリーグオフィシャルガイド1992-1993』、小学館、1992年 ISBN 4-09-102301-0
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 水島武蔵 - Soccerway.com
- 水島武蔵 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 水島武蔵 - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 水島武蔵 - J.League Data Siteによる監督データ
- FCムサシ
- FutSal Japan 水島武蔵フットサル塾