永遠の記憶
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永遠の記憶(ギリシア語: Αιωνία η μνήμη[2], 教会スラヴ語: Вечная память[3], 英語: Memory Eternal)とは、正教会における祈祷文。
埋葬式、パニヒダ、永眠者のためのリティヤなどの末尾に詠隊によって歌われるほか[4]、永眠した者の霊の安息を神に願い祈る際に、「永遠の記憶」と単独で用いられる[5]。その対象は正教徒に限定されず、正教徒では無い永眠者の霊の安息を祈る「異教人のパニヒダ」の末尾でも「永遠の記憶」が歌われる[6]。
意義
[編集]一般には「永遠の記憶」とは、追悼する人間による記憶を指すと思われがちであるが、元来は神による記憶を願うものである[7]。
聖書において、よみ(陰府、黄泉、ギリシャ語ハデス、ヘブル語シェオル)は、主である神に対する讃美もなにもない、神から離された状態として描かれる。神に記憶されるとはその対極の状態、すなわち天国にいる状態である。従って「永遠の記憶」とは、復活によって、よみに打ち勝ったイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)によって可能となり現実のものとなった、神によって与えられる永遠の生命が永眠者に与えられるよう祈願するものである[7]。
神から離れた状態が、よみを指すことについては聖詠第87(詩篇第88)が引用される。ホセア書13:14は、ハリストス(キリスト)が十字架上で死に、よみに降ってこれに打ち勝ったことと関連付けられる[8]。コリンフ前書(コリントの信徒への手紙一)の15章には、「死は勝に呑まれたり。」「神に感謝す、其我等に、我が主イイススハリストスに由りて、勝を賜ひしが故なり。」といった記述がある[9]のをはじめ、ハリストスの死と復活が、人々の死と復活と結び付けられ、死と、よみに対する勝利として語られている。ハリストスがよみに行き人々に生命をもたらしたことを示すものとして、エフェス書(エフェソの信徒への手紙)4:9、ペトル前公書(ペトロの手紙一)3章も挙げられる[7]。
埋葬式・パニヒダ・リティヤにおける祈祷文
[編集]以下のように、詠隊が三度「永遠の記憶」と歌うことで、埋葬式・パニヒダ・永眠者のためのリティヤの末尾は閉じられる。永眠者が男性である場合には「僕(ぼく)」、女性である場合には「婢(ひ)」、複数の永眠者を記憶する際に両性が含まれる場合には「僕婢(ぼくひ)」が用いられ、祈祷文の「某」の部分には聖名が入れられる。司祭のみで各種奉事を行い、輔祭が不在である場合、輔祭朗誦部分は司祭が唱える。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』
[編集]フョードル・ドストエフスキーの作品は正教会側からも高く評価されるものであり、時には「正教の神髄の代弁」とまで評され、特に『カラマーゾフの兄弟』については、正教会における人間の救いについての基本的な考えが一応網羅されているとされる[10]。
ドストエフスキーによる『カラマーゾフの兄弟』の末尾の埋葬式の場面で、この祈祷文がアリョーシャの音頭により唱和されている[11]。
訳によっては「永遠の思い出を!」などとされているものがあるが[12]、原文で述べられているのは"Вечная память!"(ヴェーチナヤ・パーミャチ!)つまり「永遠の記憶!」であり[13]、人々の思い出にのみ言及する性質の台詞にとどまらず、正教会の祈祷文として、復活への信仰を意識して述べられたものである。実際、アリョーシャも周りにいる少年達による「永遠の記憶!」と唱和する場面の前後における話題は、永眠者の復活を巡るものとなっている[11]。
脚注
[編集]- ^ 府主教ダニイル主代郁夫『2009年 復活大祭』正教時報 2009年4月号、7頁
- ^ 現代ギリシャ語読みによる転写例:「エオニア イ ムニミ」
- ^ ロシア等における転写例:「ヴェーチナヤ パーミャチ」
- ^ 現在日本正教会で行われている『パニヒダ』のテキスト
- ^ 用例:永遠の記憶フェオドシイ永島新二、釧路正教会百年の歩み(「④クリル人に永遠の記憶を」)、永遠の記憶 - しんがくほうろうき
- ^ 『諸祈祷文』98頁、札幌正教会内 ジェムズ・ミッション印刷 1963年12月15日発行
- ^ a b c OCA - The Orthodox Faith(アメリカ正教会公式ページ)
- ^ "Orthodox Study Bible" (正教聖書註解) P. 994 (2008年)
- ^ 聖書本文の引用部分は日本正教会訳聖書より。
- ^ イオアン高橋保行 p232 - p233, 1980
- ^ a b DOSTOEVSKY AND MEMORY ETERNAL - An Eastern Orthodox Approach to the Brothers Karamazov by Donald Sheehan - 「ドストエフスキーと永遠の記憶、『カラマーゾフの兄弟』に対する正教からのアプローチ」
- ^ 訳:原卓也『カラマーゾフの兄弟〈下〉』新潮文庫、ISBN 9784102010129
- ^ Ф.М. Достоевский "БРАТЬЯ КАРАМАЗОВЫ" ЭПИЛОГ.
参考文献
[編集]- 日本正教会『記憶録』昭和57年5月1日
- "Orthodox Study Bible" (正教聖書註解) (2008年)
- 高橋保行 『ギリシャ正教』 講談社学術文庫 1980 ISBN 9784061585003
関連項目
[編集]- パニヒダ第2番 (チェスノコフ)
- パニヒダ (シドロフ)
- 交響曲第11番 (ショスタコーヴィチ) - 正教とは直接の関連は無いが、第3楽章の表題が「永遠の記憶」である。
外部リンク
[編集]- 『パニヒダ』(永眠者の為の祈り)
- OCA - The Orthodox Faith(アメリカ正教会公式ページ)
- 教会スラヴ語版の『永遠の記憶』歌唱動画 (YouTube) - 輔祭朗誦の後に詠隊歌唱。ただしひろく一般に用いられる旋律とは異なる楽曲。
- ΜΝΗΜΟΣΥΝΟ - ギリシャ語版パニヒダ(ムニモーシノ)の祈祷文
- «ВЕЧНАЯ ПАМЯТЬ» Православная энциклопедия. - 正教百科事典
- DOSTOEVSKY AND MEMORY ETERNAL - An Eastern Orthodox Approach to the Brothers Karamazov by Donald Sheehan - 「ドストエフスキーと永遠の記憶、『カラマーゾフの兄弟』に対する正教からのアプローチ」