津末英明
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東京国際大学硬式野球部 コーチ | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 熊本県熊本市 |
生年月日 | 1958年10月16日(66歳) |
身長 体重 | 177 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 一塁手、外野手、指名打者 |
プロ入り | 1980年 ドラフト外 |
初出場 | 1983年4月20日 |
最終出場 | 1990年6月23日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について |
津末 英明(つすえ ひであき、1958年10月16日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手(内野手)。
来歴・人物
[編集]父は山下泰裕(柔道家)の祖父と交友関係があり、山下が九州学院高から東海大相模高に転校する際に、東海大学総長の松前重義と山下家との会談の席を仲介した人物であった[1]。
自身も東海大相模高に進学し、高校・大学を通して原辰徳と同期であった。原が3番、津末が4番を打っていた。高校時代はエースの村中秀人を擁し甲子園に4回出場。
1974年夏の選手権は右翼手として出場。準々決勝で鹿児島実の定岡正二に抑えられ、延長15回敗退[2]。
1975年の春の選抜では決勝に進出する。決勝では杉村繁のいた高知高に延長13回の接戦の末に敗れ、準優勝にとどまった[3]。同年夏の選手権は準々決勝で上尾高に敗退した[2]。直後の全日本高校選抜チームによるアメリカ西海岸・ハワイ遠征にも選出された。
1976年夏の選手権は一塁手に回るが2回戦で小山高に敗れる[2]。原らとともに強打のチームとして鮮烈な印象を残した。津末の打球の速さは原をしのぐものがあり、津末を評価する声も高かった。他の高校同期に控え投手の岡部憲章がいた。
高校卒業後は東海大学に進学。首都大学野球リーグでは在学中7回優勝。1977年の全日本大学野球選手権大会では、エースの遠藤一彦の好投もあって決勝に進むが、石毛宏典のいた駒大に延長10回の末に敗れ、準優勝となった。同年の明治神宮野球大会でも江川卓を擁する法大に敗れ、準優勝に終わる。他の大学同期に市川和正がいた。リーグ通算89試合出場、290打数90安打、打率.310、8本塁打、57打点。ベストナイン2回。
1980年オフにドラフト外で日本ハムファイターズに入団。当時の日本ハムの一塁手には柏原純一がおり、あまり出番に恵まれなかった。
1985年には柏原の不調もあって94試合に先発出場。
1986年は新入団のパット・パットナムが一塁に入るが、主に指名打者として活躍。初めて規定打席(19位、打率.285)に到達、19本塁打を記録し、出塁率.401はリーグ4位であった。
1987年は不振に喘ぎ、7月には定位置を岡持和彦らに奪われる。
1988年は、オフに構想外となったところ、読売ジャイアンツ(巨人)の監督に就任した藤田元司が原を介して津末に声をかけ、金銭トレードで[4]巨人に移籍。巨人の1989年の優勝に貢献した。同年の近鉄との日本シリーズでは2試合に出場。第2戦では九番、指名打者として先発するが無安打1四球に終わった。
1990年シーズン途中に同僚の簑田浩二とともに現役を引退し、三軍コーチに就任した。
1994年にスカウトに転身。
また高校時代から現在に至るまで原とは親交が深く、原が巨人の監督に就任した2002年からは監督付広報担当(兼運転手)となり、2011年には巨人の編成調査課長を務めた。
2020年より東京新大学野球連盟に所属する東京国際大学硬式野球部のコーチに就任した[5]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
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1983 | 日本ハム | 19 | 22 | 22 | 2 | 4 | 0 | 0 | 2 | 10 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | .182 | .182 | .455 | .636 |
1984 | 73 | 156 | 134 | 15 | 30 | 2 | 0 | 7 | 53 | 19 | 0 | 0 | 0 | 1 | 21 | 1 | 0 | 22 | 3 | .224 | .327 | .396 | .722 | |
1985 | 105 | 341 | 289 | 30 | 79 | 11 | 0 | 8 | 114 | 26 | 0 | 2 | 2 | 1 | 48 | 1 | 1 | 59 | 8 | .273 | .378 | .394 | .772 | |
1986 | 119 | 403 | 330 | 38 | 94 | 13 | 1 | 19 | 166 | 52 | 5 | 1 | 9 | 0 | 63 | 1 | 1 | 92 | 4 | .285 | .401 | .503 | .904 | |
1987 | 70 | 170 | 145 | 15 | 31 | 3 | 2 | 3 | 47 | 13 | 0 | 1 | 0 | 0 | 25 | 0 | 0 | 34 | 6 | .214 | .329 | .324 | .654 | |
1988 | 60 | 81 | 63 | 5 | 13 | 3 | 0 | 1 | 19 | 8 | 0 | 0 | 1 | 1 | 16 | 1 | 0 | 19 | 0 | .206 | .363 | .302 | .664 | |
1989 | 巨人 | 45 | 51 | 41 | 2 | 12 | 3 | 0 | 2 | 21 | 8 | 0 | 0 | 1 | 0 | 8 | 0 | 1 | 8 | 1 | .293 | .420 | .512 | .932 |
1990 | 18 | 18 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 5 | 1 | .000 | .333 | .000 | .333 | |
通算:8年 | 509 | 1242 | 1036 | 107 | 263 | 35 | 3 | 42 | 430 | 128 | 5 | 4 | 13 | 3 | 187 | 4 | 3 | 243 | 23 | .254 | .369 | .415 | .784 |
記録
[編集]- 初出場:1983年4月20日、対南海ホークス1回戦(大阪スタヂアム)、6回表に榊原良行の代打として出場
- 初安打:1983年9月13日、対南海ホークス21回戦(大阪スタヂアム)、8回表に嶋田信敏の代打として出場、金城基泰から
- 初先発出場:1983年9月16日、対阪急ブレーブス24回戦(後楽園球場)、9番・左翼手として先発出場
- 初本塁打・初打点:1983年9月17日、対阪急ブレーブス25回戦(後楽園球場)、9回裏に和田博盛の代打として出場、佐藤義則からソロ
背番号
[編集]- 23 (1981年 - 1988年)
- 37 (1989年 - 1990年)
- 137 (1991年)
- 87 (1992年 - 1993年)
脚注
[編集]- ^ “「柔の道 ひと筋に」東海大学副学長 山下泰裕さん”. くまにちコム. 熊本日日新聞. (2012年10月19日) 2017年9月18日閲覧。
- ^ a b c 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 読売新聞1988年11月11日19面
- ^ “東京国際大が元巨人の津末英明新コーチを迎えて始動「わかりやすく伝えたい」 東海大相模・東海大で巨人・原監督と主軸”. 中日スポーツ (2020年1月10日). 2020年5月10日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 津末英明 - NPB.jp 日本野球機構