源清蔭
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時代 | 平安時代前期 - 中期 |
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生誕 | 元慶8年(884年) |
死没 | 天暦4年7月3日(950年8月18日) |
官位 | 正三位、大納言 |
主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇 |
氏族 | 陽成源氏 |
父母 | 父:陽成天皇、母:紀氏 |
兄弟 | 清蔭、元良親王、元長親王、元利親王、長子内親王、儼子内親王、元平親王、清鑒、清遠 |
妻 | 韶子内親王 |
子 | 兼房、忘江、兼材、兼基 |
源 清蔭(みなもと の きよかげ、元慶8年(884年) - 天暦4年7月3日(950年8月18日))は、平安時代前期から中期にかけての公卿、歌人。陽成天皇の第一皇子[1]。官位は正三位・大納言。
経歴
[編集]醍醐朝初頭の延喜3年(903年)一世源氏として无位から従四位上に直叙され、翌延喜4年(904年)次侍従に任官する。延喜7年(907年)信濃権守次いで大蔵卿に任ぜられると、朱雀朝の承平5年(935年)まで30年近くの長きに亘り大蔵卿を務めた。なおこの間、延喜19年(919年)正四位下に叙せられ、延長3年(925年)には参議に任じられ公卿に列している。
その後、朱雀朝において、承平7年(937年)従三位、天慶2年(939年)権中納言、天慶4年(941年)中納言と累進し、村上朝の天暦2年(948年)正三位・大納言に至る。天暦3年(949年)太政大臣・藤原忠平が没したことから、左右大臣に並ぶ藤原北家嫡流の藤原実頼・師輔兄弟に次いで太政官で第三位の席次を占めた。
天暦4年(950年)7月3日薨去。享年67。最終官位は大納言正三位。
人物
[編集]勅撰歌人として、『後撰和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に8首が採録されている[2]。
官歴
[編集]『公卿補任』による。
- 延喜3年(903年) 正月7日:従四位上(直叙)
- 延喜4年(904年) 12月28日:次侍従
- 延喜7年(907年) 正月13日:信濃権守。10月10日:大蔵卿
- 延喜19年(919年) 正月7日:正四位下
- 延長3年(925年) 正月30日:参議。11月:兼大蔵卿
- 延長4年(926年) 正月29日:兼備前権守
- 延長8年(930年) 日付不詳:止備前権守
- 延長9年(931年) 日付不詳:兼越前権守
- 承平5年(935年) 2月23日:兼右衛門督
- 承平6年(936年) 正月29日:兼備前守
- 承平7年(937年) 正月7日:従三位
- 天慶2年(939年) 12月27日:権中納言、右衛門督如元
- 天慶3年(940年) 正月19日:止右衛門督
- 天慶4年(941年) 12月18日:中納言
- 天暦元年(947年) 6月6日:兼按察使
- 天暦2年(948年) 正月30日:正三位、大納言、止按察使
- 天暦4年(950年) 7月3日:薨去(大納言正三位)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]参考文献
[編集]官職 | ||
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先代 藤原師輔 | 陸奥按察使 947 - 948 | 次代 藤原在衡 |
先代 藤原実頼 | 右兵衛督 936 - 940 | 次代 藤原忠文 |