源雅兼
ウィキペディアから無料の百科事典
時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 承暦3年(1079年) |
死没 | 康治2年11月8日(1143年12月15日) |
別名 | 薄雲中納言、礼部禅門 |
官位 | 従三位、権中納言 |
主君 | 白河上皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇 |
氏族 | 村上源氏 |
父母 | 父:源顕房、母:藤原惟子(藤原惟綱の娘) |
兄弟 | 賢子、雅実、顕仲、雅俊、国信、師子、相覚、顕雅、定海、隆覚、信雅、覚樹、雅兼、清覚、雅光、覚雅、御匣殿、季房、雅隆、顕覚、藤原顕隆室、藤原師実室、別当殿、堀河院承香殿 |
妻 | 藤原季成の娘、源忠宗の娘、源能俊の娘 |
子 | 雅頼、定房、通能、雅成、雅範、雅綱、季房?、雅隆?、藤原俊盛室 |
源 雅兼(みなもと の まさかね)は、平安時代後期の公卿。村上源氏、右大臣・源顕房の八男。官位は従三位・権中納言。薄雲中納言と呼ばれた。
経歴
[編集]白河院の近臣として信任厚く、長治元年(1104年)堀河天皇の五位蔵人となり、嘉承2年(1107年)の崩御まで務める。天永2年(1111年)からは鳥羽天皇の五位蔵人を務め、弁官の労にて永久5年(1117年)正月、従四位下に叙される。保安3年(1122年)から、鳥羽・崇徳二代の蔵人頭を務め、大治5年(1130年)十月参議左大弁となる。天承元年(1131年)に従三位・権中納言に至る。長承3年(1134年)治部卿を兼ね、長承4年(1135年)病気により辞職して出家。礼部禅門と呼ばれた。
学才に優れ、朝廷の政務にも通じており、白河院・鳥羽院の信頼が厚かった。白河院は藤原通俊や大江匡房と並んで評価をしたといい(『古事談』)、鳥羽院は雅兼の出家後も、しばしば呼び出して重要事について相談したとされる(『今鏡』300段)。また、源師時は、天下を支える名臣として、源師時・藤原忠宗・源師俊と共に雅兼を挙げている(『長秋記』長承2年9月5日条)。
詩歌もよくし、家集として『中納言雅兼卿集』(83首)がある。『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に9首が入集。
系譜
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- 『国史大辞典 第13巻』吉川弘文館 国史大辞典編集委員会(編)ISBN 4642005137