源雅兼

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源 雅兼
時代 平安時代後期
生誕 承暦3年(1079年
死没 康治2年11月8日1143年12月15日
別名 薄雲中納言、礼部禅門
官位 従三位権中納言
主君 白河上皇堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇
氏族 村上源氏
父母 父:源顕房、母:藤原惟子藤原惟綱の娘)
兄弟 賢子雅実顕仲雅俊国信師子相覚顕雅定海、隆覚、信雅覚樹雅兼、清覚、雅光、覚雅、御匣殿、季房雅隆顕覚藤原顕隆室、藤原師実室、別当殿、堀河院承香殿
藤原季成の娘、源忠宗の娘、源能俊の娘
雅頼定房通能雅成雅範雅綱季房?、雅隆?、藤原俊盛
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源 雅兼(みなもと の まさかね)は、平安時代後期の公卿村上源氏右大臣源顕房の八男。官位従三位権中納言薄雲中納言と呼ばれた。

経歴

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白河院の近臣として信任厚く、長治元年(1104年堀河天皇五位蔵人となり、嘉承2年(1107年)の崩御まで務める。天永2年(1111年)からは鳥羽天皇の五位蔵人を務め、弁官にて永久5年(1117年)正月、従四位下に叙される。保安3年(1122年)から、鳥羽・崇徳二代の蔵人頭を務め、大治5年(1130年)十月参議左大弁となる。天承元年(1131年)に従三位・権中納言に至る。長承3年(1134年治部卿を兼ね、長承4年(1135年)病気により辞職して出家。礼部禅門と呼ばれた。

学才に優れ、朝廷の政務にも通じており、白河院鳥羽院の信頼が厚かった。白河院は藤原通俊大江匡房と並んで評価をしたといい(『古事談』)、鳥羽院は雅兼の出家後も、しばしば呼び出して重要事について相談したとされる(『今鏡』300段)。また、源師時は、天下を支える名臣として、源師時藤原忠宗源師俊と共に雅兼を挙げている(『長秋記』長承2年9月5日条)。

詩歌もよくし、家集として『中納言雅兼卿集』(83首)がある。『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に9首が入集。

系譜

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脚注

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  1. ^ 尊卑分脈』『公卿補任』による。『中右記』では藤原惟経の娘とする。

出典

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