生贄の女たち
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生贄の女たち | |
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監督 | 山本晋也 |
脚本 |
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出演者 | |
音楽 | 芥川隆 |
撮影 | 鈴木史郎 |
編集 | 田中修 |
製作会社 | |
配給 | 東映 |
公開 | 1978年6月3日 |
上映時間 | 82分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
『生贄の女たち』(いけにえのおんなたち)は、1978年に公開された日本映画。ハリー・リームス主演・山本晋也監督。東映セントラルフィルム・東映芸能ビデオ製作、東映配給[1]。 1979年の『下落合焼とりムービー』は本作が切っ掛けで製作された。
キャスト
[編集]- ミスター・ハリー:ハリー・リームス
- 有沢彩子:飛鳥裕子
- 有沢とみ子:松井康子
- 江川玲子:東てる美
- 中村夕子:岡尚美
- 片山波子:岡本麗
- 井筒教授:桑山正一
- 浮田:草薙良一
- 桐川:榎木兵衛
- 栗田:団巌
- 笹井忠子:小野寺レイ子
- ピンクサロンの女:一色リエ
スタッフ
[編集]- 監督:山本晋也
- 脚本:佐治乾・山本晋也
- 原案:田中陽造
- 企画:黒澤満・伊地智啓・向江寛城
- 撮影:鈴木史郎
- 音楽:芥川隆
- 録音:宮田利明
- 照明:斉藤正明
- 編集:田中修
- 製作担当:小椋正彦
- 助監督:高橋芳郎・加茂田好史
製作
[編集]企画
[編集]企画は岡田茂東映社長[2][3][4]。アメリカのハードコア『ディープ・スロート』で32センチとも[5]、36センチともいわれる巨根を持つポルノ男優として有名になったハリー・リームス[注 1][7]を日本に呼んで大和撫子をヒイヒイいわす、というのが本作の企画コンセプト[4][5][8]。普通に作ったら日活ロマンポルノと大差ないだろうという判断から、ハリー・リームスの招集を思い付いたといわれる[2]。岡田社長が黒澤満プロデューサーに本作の製作を命じた[3]。
1977年11月に[4]タイトル『提督ハリーと唐人お吉』として製作が伝えられ[4]、「ハリー・リームスがペリー提督に扮するポルノ時代劇で、東映が近く発足させる新会社東映セントラルフィルムが製作・配給する」と発表された[4]。東映セントラルフィルムは、岡田茂東映社長が『柳生一族の陰謀』を皮切りに、大作一本立て興行にシフトさせるにあたり[9][10]、それについていけない下番線のコヤが出るため[9]、その番線の支えになる既成の製作体制では考えられないような企画優先の異色作を低コストで作ったり、特殊な味のある他社作品を買取り、大作主義体制をマーケット維持の面で補強するという目的を持ったもので[9][10][11][12]、製作コストが割高になる撮影所ではなく、外部スタッフに基本3000万円で映画を作ってもらい、買取り作品を中心に配給する新会社であった[3][8][10][13][14]。1977年12月に日活の撮影所長だった黒澤満を迎えて同社を起動させた[3][11][12][15][16][17]。東映セントラルフィルム/セントラル・アーツというと、松田優作主演・村川透監督コンビによる「遊戯シリーズ」や「あぶない刑事シリーズ」、「ビー・バップ・ハイスクールシリーズ」などのアクション映画で知られるが[4]、岡田社長は、日活ロマンポルノを指揮した黒澤満に当初は、日活ロマンポルノ的なポルノを東映系列に組み込めないかと画策していたという見方もある[4]。
1978年3月頃までの報道ではタイトルは『生贄(いけにえ)』に変更されていた[4][8]。正式に『生贄』と、松田優作主演・村川透監督の『最も危険な遊戯』が東映セントラルフィルムの旗揚げ作として製作が決まったと報道され[4]。これを二本立てで当初、1978年3月中旬公開と告知されていた[8]。この時点で、『生贄』から時代劇設定は外され、「短小で悩むハリー・リームスが来日、日本人の巨大な性器を移植して美女をナデ切るといった艶笑ポルノ」と説明があり、完成品に近い内容に変更になった[4]。
脚本
[編集]監督には黒澤プロデューサーが、東映の社員監督・関本郁夫に頼んだ[4][8][18]。しかし関本が佐治乾の脚本が面白くないとクレームを付け[18]、関本と荒井晴彦、高田純の3人で手を入れ、パロディー満載のホンに書き換え、関本も「大傑作」と豪語する内容に改訂したが[18]、黒澤プロデューサーに却下された[4][18]。佐治乾も激怒し[18]、関本は監督を降ろされ、監督は山本晋也に交代した[4][18]。この事件により関本は東映セントラルフィルムとの縁は切れたという[18]。最終的に山本が脚本にかなり手を入れたといわれる[4]。原案クレジットに田中陽造の名前があるのは何故か分からない。当初『最も危険な遊戯』との二本立てを予定していたこのポルノ作品は、もっと簡単に完成すると思われたが、上記トラブルにより、『最も危険な遊戯』より2ヵ月も完成が遅れた[4]。早撮りの村川透がサラリと完成させた松田優作のアクションが望外の好評を得たことで、岡田茂が構想していたポルノ路線は脇に回り[19]、東映セントラルフィルム/セントラルアーツは、アクションを主体とした製作に邁進していった[4][19]。
宣伝
[編集]東映は36センチ砲を受けとめる器が見つからないと、女優探しに難航しているなどと、ハードコアでもないのに、変な宣伝が打った[6]。
1978年5月10日、ハリー・リームスを迎えて東京目黒エンペラーで製作発表が行われ[2][6][20]、ピンク週刊誌を中心に多くの報道陣が集まった[2]。出演女優も全員出席し[6]、胸を露出するサービス[6]。ブリーフ一丁で出席したハリー・リームスは、裸の美女に囲まれニコニコ[6]。36センチ砲に質問が集中したが、「あれは、あくまでも映画のマジックだよ」と話した[6]。ナニを見せられない邦画界で、何故36センチリームスを連れて来たのか疑問も出た[6]。席上、岡田社長が悪ノリし「巨根日本一を決めるコンクールがやれるんなら面白いんだが」などと話した[2]。
同時上映
[編集]『沖縄10年戦争』
影響
[編集]本作製作の切っ掛けになった『ディープ・スロート』の日本版編集は、東映洋画が本作のプロデューサーである向江寛城(向井寛)に頼み[5][21]、興収3億円の大ヒットに結び付けた功績から[5]、向井は東映から低予算の500万円ポルノを大量に発注しユニバースプロ(後の獅子プロダクション、以下獅子プロ)を設立した[21]。東映セントラルフィルムの発足で、向井が黒澤満とともに中核プロデューサーとして権限が増し[21]、山本晋也監督と盟友関係にあったことから、1979年の『下落合焼とりムービー』製作に繋がったといわれる[22]。山本は本作のテンポイントを絡ませるオチなどが面白いと東映首脳から評価を高めていた[23]。
東映セントラルフィルムを設立した岡田社長が1979年6月、今度は若手プロデューサーや監督に活躍の場を与えようという目的で[24][25][26]、ATGの商業映画版である東映シネマサーキット(TCCチェーン、以下TCC)という新たな東映の配給網を作り[24][26]、その旗揚げ作として向井から山本の元へ「面白グループ(赤塚不二夫#面白グループ)企画、所ジョージ主演でコメディ映画を作らないか」と発注があり、「面白グループ」の集大成的な映画、『下落合焼とりムービー』が東映本体での製作が決まった[24][27][28]。岡田社長は1978年11月に『宇宙からのメッセージ』の全米公開に立ち会うため渡米した際[29]、『アニマル・ハウス』のようなB級作品が、ニューヨークでジャンジャンお客を入れ込んでいるのを観て[30]、B級コメディの製作に意欲を燃やしていた[30][31][32]。高平哲郎は当時の著書で「『下落合焼とりムービー』は、プログラムピクチャーの低予算映画が見直されている昨今の風潮に便乗させてもらえた」と述べている[24]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “生贄の女たち”. 日本映画製作者連盟. 2021-05–01閲覧。
- ^ a b c d e 「VMレーダー 男根のコンプレックス」『月刊ビデオ&ミュージック』1978年6月号、東京映音、36頁。
- ^ a b c d 新しい映画の供給を目指して東映セントラルフィルム (株)、p.260
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p COLUMN『アーツ』のアクションを生み出した東映セントラルフィルム 文・藤木TDC、pp.40–56
- ^ a b c d 町山智浩「『ディープ・スロート』主演男優ハリー・リームズ "激白"インタビュー」『映画秘宝』2005年12月号、洋泉社、34頁。わたなべりんたろう「いま暴かれる東映版『ディープ・スロート』の真実 向井寛"機密"インタビュー」『映画秘宝』2005年12月号、洋泉社、35-36頁。
- ^ a b c d e f g h 美崎奈代「記者会見 ハリー・リームズ」『キネマ旬報』1976年6月下旬号、キネマ旬報社、175頁。
- ^ 東映三角マークの海外女優日本襲来!! ATTACK OF THE FOREIGN PORNO STAR オマケもう一人のダーク・ディグラー ハリー・リームス(FROM U.S.A.) 文・伴ジャクソン、p.250
- ^ a b c d e 河原一邦「邦画界トピックス」『ロードショー』1978年4月号、集英社、251頁。
- ^ a b c “東映岡田社長の年始の発言多岐にわたる営業方針邁進”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1978年1月14日)
- ^ a b c 山本俊輔、佐藤洋笑『映画監督 村川透 和製ハードボイルドを作った男』DO BOOKS、2016年、144-145頁。ISBN 9784907583705。
- ^ a b 1977年12月東映の岡田茂社長は、いま…野性的なたくましさで断固革新、pp.94-95
- ^ a b “セントラル・アーツ 起動40周年記念!【初回生産限定】 遊戯シリーズ ...”. 東映ビデオ (2016年12月2日). 2018年11月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月2日閲覧。
- ^ 「日本映画界 '78の新動向 =大作一本立興行へ急速に傾斜=」『映画時報』1978年3月号、映画時報社、5–6頁。“買取り作品を中心の配給で東映新会社セントラルF”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1977年12月10日)
- ^ 「『最も危険な遊戯』『殺人遊戯』『処刑遊戯』 『遊戯』シリーズ ブレーレイ・ボックス発売記念 映画元来の遊戯精神に満ちたエンターテインメントに徹する作品作りその原点がここにある 文・佐藤洋笑」『東映キネマ旬報 2017年冬号 vol.28』2016年12月1日、東映ビデオ、12頁。
- ^ ドキュメント東映全史 多角化は進んでも東映の看板はやはり映画 文・岡田茂、pp.6–7
- ^ 黒澤満・伊地智啓・村川透インタビュー、pp.20–21、45、68
- ^ 石飛徳樹 (2012年11月21日). “(人生の贈りもの)映画プロデューサー黒澤満:3 演技に一途な松田優作”. 朝日新聞夕刊 (朝日新聞社): p. be水曜3面「関根忠郎の映画業界一意専心 『映画業界に多大な貢献。85歳まで現役の名伯楽・黒澤満さんを悼む。』 遠藤茂行東映プロデューサーインタビュー」『文化通信ジャーナル』2019年1月号、文化通信社、84-85頁。「東映セントラルフィルム研究 プログラム・ピクチュアこそ日本映画のオリジンだ 〔座談会〕村川透・佐治乾・黒沢満 〔司会〕山根貞男」『キネマ旬報』1978年12月上旬号、キネマ旬報社、85頁。構成・内海陽子「しねまあるちざん 〔座談会〕 黒澤満・丸山昇一・伊地智啓・山口剛」『バラエティ』1982年2月号、角川書店、50頁。一般社団法人映画産業団体連合会(映画の日)(Internet Archive)、丸山昇一「ひとつのデスクから、映画と映画人が育っていった。」(『NFAJニューズレター』第4号、6-8頁) 国立映画アーカイブ開館記念 映画プロデューサー 黒澤満、talk & interview - _... moment ...._: 仙元誠三
- ^ a b c d e f g 関本郁夫インタビュー 聞き手・藤木TDC、p.183
- ^ a b 「男の教科書! 東映セントラルの世界 ~セントラル・アーツの世界 杉作J太郎×藤木TDC セントラル・アーツ映画を語る」『映画秘宝』2010年12月号、洋泉社、46頁。
- ^ 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1978年5月13日)
- ^ a b c 東映ニューポルノと呼ばれた男たち!!向井寛 文・藤木TDC、pp.252–255
- ^ 山本 1979, pp. 41-42、50.
- ^ 『日本映画テレビ監督全集』キネマ旬報社、1988年、453-455頁。
- ^ a b c d 高平哲郎『ぼくたちの七〇年代』晶文社、2004年、219-222頁。ISBN 4-7949-6602-4。高平哲郎『スラップスティック・ブルース』冬樹社、1981年、236-239頁。
- ^ TCCチェーン/東映洋画系作品からアルファ作品へ、p.261
- ^ a b 「東映、東西2館を拠点にT・C・C創設」『キネマ旬報』1979年6月上旬号、キネマ旬報社、175頁。「映画・トピック・ジャーナル 多様化する東映の製作システム」『キネマ旬報』1979年7月上旬号、キネマ旬報社、206-207頁。
- ^ 山本 1979, pp. 102–106.
- ^ 河原一邦「邦画界マンスリー」『ロードショー』1979年8月号、集英社、247頁。
- ^ 岡田茂「〔フロントページ〕アメリカで支持された東映作品」『キネマ旬報』1979年1月下旬号、キネマ旬報社、97頁。
- ^ a b 1979年1月 東映の今後は映像商社を目指す、p.123
- ^ 「所ジョージ、タモリら奇人総出演のギャグ映画が船出 『ミスター・ブー』顔負けのドタバタ映画めざして」『週刊明星』1979年5月27日号、集英社、46頁。
- ^ 高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 大きな問題を残したお盆興行」『キネマ旬報』1979年9月下旬号、キネマ旬報社、175頁。
参考文献
[編集]- 山本晋也『わたしは痴監』レオ企画、1979年。
- 『日本映画テレビ監督全集』キネマ旬報社、1988年。
- 岡田茂『クロニクル東映 1947ー1991 〔2〕』東映株式会社、1992年。
- 杉作J太郎、植地毅『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』徳間書店、1999年。ISBN 4-19-861016-9。
- 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年。ISBN 978-4-636-88519-4。
- 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年。
- 山本俊輔+佐藤洋笑+映画秘宝編集部 編『セントラルアーツ読本』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2017年。ISBN 978-4-8003-1382-9。