神門神社
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神門神社 | |
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拝殿 | |
所在地 | 宮崎県東臼杵郡美郷町南郷神門69-2 |
位置 | 北緯32度23分9.6秒 東経131度19分51.4秒 / 北緯32.386000度 東経131.330944度座標: 北緯32度23分9.6秒 東経131度19分51.4秒 / 北緯32.386000度 東経131.330944度 |
主祭神 | 大山祇神、禎嘉王ほか |
社格等 | 郷社 |
創建 | 伝・養老2年(718年) |
本殿の様式 | 七間社流造 |
例祭 | 秋季例祭(10月17日) 師走祭り(旧暦12月) |
地図 |
神門神社(みかどじんじゃ)は、宮崎県東臼杵郡美郷町にある神社。祭神は大山祇神、百済の禎嘉王、倉稲魂命、品陀和気命(応神天皇)ほか。本殿は国の重要文化財に指定されている。
概要
[編集]『神門神社縁起』によると、奈良時代中期の孝謙天皇天平勝宝八歳(756年)、660年に滅亡したはずの百済より政争を逃れたという王族の禎嘉王とその子の福智王、華智王が日向の海岸に漂着し、やがて禎嘉帝は神門の地に落ち着き、福智王は現在の木城町に住んだとされる。「益見太郎」または「益シ見ル者」の援助があり、父子はこの地で崇敬され、死後は神として祀られたという(詳細は後述)。
『三国史記』によると、756年は統一新羅・景徳王の時代で、この前後に災害が続き民が飢えたことが記されている[1]。 日本側の記録『続日本紀』によると、天平宝字三年九月四日(759年)条に、以下のように記されている[2]。
近年、新羅の人々が帰化を望んで来日し、その船の絶えることがない。
彼らは租税や労役の苦しみを逃れるため、遠く墳墓の地を離れてやってきている。
その心中を推し量ると、どうして故郷を思わないことがあろうか。
それらの人々に再三質問して、帰国したいと思う人があれば、食料を与えて帰らせるように。 — 『続日本紀』中巻p234,講談社学術文庫
4つの異なる伝承
[編集]以下の四書において、伝承が異なる。
- ①『神門神社縁起』(宝暦五年六月,源光章)[3]
- ②『比木大明神縁起』(宝暦五年七月七日,源光章)[4]
- ③『日向旧跡見聞録』(宝永九年閏七月,笠原道順)[5]
- ④『筑紫日記』寛政四年閏二月十九日条[4]
①②は甲斐州山梨郡山王社神主である源光章によって作成されたものである。それぞれ前半部分は佐土原町上田島にある仏日山大光寺拙堂禅師が持ち込んだ『比木祠旧記』の写しで、後半は源光章による考証である。 『比木祠旧記』文中では、天平勝宝八歳を「天平勝宝八年」と誤記している。 また、文中には1580年代に開始された[6]唐津焼が登場する[7]。
①では、源光章による考証部分で「孝謙天皇時、百済王子金泰廉等朝貢事」と百済と新羅を混同している(②では「新羅」と修正されている)[8]。
『比木祠旧記』の内容も、①②間で異なる。
- ①は送り仮名を漢字表記。②ではカタカナ表記(例:「与利」=「ヨリ」)
- ①では「貞嘉帝」、②では「禎嘉王」
- ①では「和国は神国である」という貞嘉帝の言葉がある
- ②では、日向国に着くまでの道筋が簡単になっている。筑紫へ行ったこと、風に流されたことを書いていない
- ①では「益見太郎」が固有名詞、②では「益シ見ル者」と固有名詞になっていない(ただし『宮崎県史 別編 神話伝承資料』収録の天保三年写本では「益見ナル者」に改竄されている)
- ①では貞嘉帝の皇后の名前は無く、単に鴫野村に葬ったとある
- ②には、若御子宮の話がある。また、舎人七人の話がある
- ②には、王次子(華智王)の名前が書かれていない
③は笠原道順が現地古老に取材して実見するところをまとめたものである[5]。 本書では百済関連の伝承は語られない。比木神社に祭られているのは福智王とせず、「異国の大将軍」であると地元民は述べる。 著者はそれを誤りとし、祭神である大己貴命が、国譲りの後にこの地で蟄居したためであろうと論じる。 神輿の巡行については、大己貴命が独り日本国に留まって経営を続けたことに由来するという[9]。
④は高山彦九郎の巡遊日記である。神門神社の祭神について、「百済王とも源頼朝の子供ともいう[10]」と述べる。
王の遺品として伝わる鏡24面が社宝として残っている。神社の近くの国道446号線沿いに「百済王貞嘉帝古墳」と書かれた標柱が立てられている。標柱の南約50メートルほどのところの畑の中に、封土の大部分が削平された塚ノ原古墳がある。本殿の屋根裏には、千点以上の鉄鉾や鉄鏃などの武器類が保管されており、地域の武器庫とのかかわりが考えられる。さらに、須恵器の大甕や古墳時代の直刀や銅鈴、馬鐸(ばたく)などが保存されている。
文化財
[編集]- 重要文化財
- 本殿
- 日向南郷神門神社・木城比木神社の師走祭り
- 毎年旧暦の12月(例年新暦の1月最終週頃)に行われる1,000年の伝統を誇る祭りである。木城町の比木神社に祀られている福智王の御神体が、90kmの道程を旅して神門神社に祀られている父の禎嘉王に対面する祭礼で3日間行われる。以前は全行程徒歩で行われていたため10日かけて行われていた。対面した初日から2日目にかけては神楽が舞われる。3日目の別れの儀式では皆で顔にかまどの墨を塗る「へぐろ塗り」が行われる。平成3年(1991年)1月25日選択。
- 宮崎県文化財
- 銅鏡33面
- 板絵観音菩薩正体1面
アクセス
[編集]脚注
[編集]- ^ 『三国史記』巻1p296〜297,東洋文庫,平凡社,井上秀雄
- ^ 『続日本紀』中巻p234,講談社学術文庫
- ^ 『宮崎県史蹟調査第7輯』宮崎県内務部,1929,『宮崎県史 別編 神話伝承資料』,宮崎県,1994
- ^ a b 『宮崎県史 別編 神話伝承資料』,宮崎県,1994,『日向南郷神門神社・木城比木神社の師走祭 調査報告書』南郷村教育委員会,1998
- ^ a b 『宮崎県史 別編 神話伝承資料』,宮崎県,1994
- ^ 矢部良明編『角川日本陶磁大辞典』,角川書店,2002
- ^ 「其後坪壱、肥前国上松浦、唐津之郷小次郎官者邑爾而焼調而二止那志宝物止那須、御宝蔵者、鳥居之前田中爾壱間四方之者有而、毎年秋之稲、初穂於其坪爾納而、十二月初御祭祀之時火棄大神、神門社邇幸有而、棄火(原文ママ)御帰宮之時、諸諸道筋之宿所宿主爾少々宛送之、都合焼物唐津焼止云毛是故也、」
- ^ 金泰廉の出自について、正しくは『続日本紀』天平勝宝四年三月二十二日条を参照のこと
- ^ 比貴大明神 比貴村 一所祭之神ハ大己貴命也。 六月酉日、九月酉ノ日、十一月酉ノ日、祭礼アリ。 九月中ノ酉ノ日ヨリ御里廻りトテ神輿町々在所々ニ巡幸アリ。 凡ソ四日程巡幸マシ々々テ本宮ニ帰リ玉フ。 伝ヘ云此ノ神ハ異国ノ大将軍ナリシガ、合戦ニ打負テ此ノ処ヘ逃来り玉フト 今按ニ最も由緒アルコトナリ。日本紀神代巻ニ、高皇産霊尊、経津主神、 武甕槌命ヲ遣シテ葦原ノ中国ヲ平ニ二神、出雲国五十田狭之小汀ニ至リテ 十握剣ヲ抜テ倒ニ地ニ突立テ箕踞(ウチアリミ)テ大己貴神ニ向曰、 高皇産霊尊皇孫ヲ降奉リテ、此国ノ君トセント欲ス。 故ニ先ツ我二神ヲ遣テ平定シム。汝ガ意如何マサニ順ヒ避奉ルヘキヤ、否ト 云フ時ニ、大己貴神対曰、我子事代主神遊行テ、出雲国三穂之崎ニ在リ。 コレニ問テ後ニ報辞申サント云テ、即時ニ早船ヲ仕立テ、使者稲背脛 ヲ遣シテ具ニ産霊尊ノ勅旨ヲ演ブ。 ……(略)…… 然レバ大己貴神、出雲国五十田狭之小汀ヨリ引退キ玉フ時、御船ニ乗(メ)シ、 海上ヲ渡テ直ニ此処エ蟄居シ玉フ者也。 実ニ本朝地主之神ニテ在ス大将軍ナレドモ、天神ノ勅命ニ順ヒ、引退隠居 シ玉フ為躰サナガラ合戦ニ打負テ引退ニ相似タル者乎。 異国ノ大将軍敗北シテ当地ヘ来リ玉フトイヘル俗説モ、此由緒ヲ誤リ伝ヘナルベシ。 且ツ神輿国中ヲ巡幸シ玉フコト是又来由アリ。 神代巻ニ云カノ大己貴神、少名彦命(ママ)ト力ヲ戮セ心ヲ一ツニシテ、 天下ヲ経営シ玉フ。少彦名命ハ常世ノ郷(クニ)ニ至リテ後、大己貴神独天下 ヲ巡行シテ大造ノ績ヲ建玉ヘリ。遂ニ出雲ノ国ニ到テ興言曰、 夫葦原中国ハ、本自ラ荒芒シテ人民強暴然ドモ吾已ニ摧伏和順セスト云事ナシ。 今此国ヲ埋ムルハ唯吾一身而已。 其吾ト共ニ天下ヲ埋ムベキモノ蓋シ有之乎ト。甚タ自負シ玉フト云ヘリ。 然レバ此神巡国ノ労ヲ致シテ天下ヲ経営シ玉フ事中華大禹ノ丕績ト少シモ異ナル 事ナシ。依之(これより)今ニ至マテ年々祭日ニ神輿ノ国土ヲ巡行シ玉フ事ハ正ク 上代ノ遺風ニシテ此ノ神ノ功徳ヲ顕スモノナリト知ルベシ。
- ^ 神門に至る。神門大明神拝殿宮殿巳午の間に向ふ、杉の大木多し、十二宮大明神とも称す。極月申酉の日祭礼、比木大明神の親神にて比木の神卯の日に発駕、美々津通行未の日に爰に神体鉾渡らせ給ふ。百済王とも言ひ、また、頼朝伊 藤の館にて預けられし子也とも称す。