紀元前229年
ウィキペディアから無料の百科事典
世紀 | 前4世紀 - 前3世紀 - 前2世紀 |
---|---|
十年紀 | 前240年代 前230年代 前220年代 前210年代 前200年代 |
年 | 前232年 前231年 前230年 紀元前229年 前228年 前227年 前226年 |
紀元前229年(きげんぜん229ねん)は、ローマ暦の年である。
他の紀年法
[編集]できごと
[編集]ギリシア
[編集]- ローマ元老院が執政官ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスとグナエウス・フルウィウス・ケントゥマルスに率いられた軍をイリュリアに派遣し、第一次イリュリア戦争が勃発した。ローマ軍はギリシアのエピダムノス、アポロニア、コルシカ島、ファロス島、フヴァル島からイリュリアの守備隊を撤退させ、保護領とした。
- イリュリアのArdiaei族がローマ軍に征服された。
- マケドニア王デマティリウス2世が死に、わずか10歳の甥のアンティゴノス3世が、従兄弟で後に王となるフィリップ5世を摂政として王位を継いだ。
- ローマ帝国の拡張を懸念し、アンティゴノス3世はイリュリアとの友好政策を放棄した。
- イリュリアへのローマ帝国の侵略により、マケドニアに敵対するアエトリア同盟、アカイア同盟の国々とローマ帝国の間に友好関係ができた。これにより、イリュリアの海賊行為が抑えられた。
- シキュオンのアラトスはアルゴスをアカイア同盟に加盟させ、アテナイの解放を支援した。このため、アラトスはスパルタと敵対するようになった。
中国
[編集]- 秦の王翦・羌瘣・楊端和らが趙を攻撃し、趙の李牧と司馬尚が防戦にあたった。秦は趙の幽繆王の側近である郭開を買収して、李牧と司馬尚のことを讒言させた。幽繆王は趙葱と顔聚を派遣して李牧らに代えようとした。李牧は命を受け入れず、幽繆王は李牧を捕えて殺害し、司馬尚を免職させた。王翦は趙軍を撃破して、趙葱を殺害し、顔聚を敗走させ、邯鄲を包囲した。
誕生
[編集]- ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス:共和政ローマの軍人、執政官、政治家(紀元前160年没)
- 胡亥:秦の第2代皇帝(紀元前207年没)
死去
[編集]脚注
[編集]注釈
出典