アンソニー・ホースリー

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アンソニー・ホースリー[注釈 1]
Anthony Horsley
生誕 (1943-10-31) 1943年10月31日(80歳)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドサフォーク州ニューマーケット[3][4]
国籍 イギリスの旗 イギリス
職業 チームマネージャー(F1)
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アンソニー・ホースリー(Anthony Horsley、1943年10月31日[3] - )は、自動車レースのフォーミュラ1(F1)において1970年代に参戦していたヘスケス・レーシングアレクサンダー・ヘスケスと共に立ち上げた共同創設者であり[3]、同チームのチームマネージャーとして知られる。

通称の「バブルス」から「バブルス・ホースリー」(Bubbles Horsley)とも呼ばれる(→#通称)。

経歴[編集]

1943年にサフォーク州ニューマーケットで生まれ、ケント州に所在するパブリックスクールドーバー・カレッジ英語版で学んだ[3][4]

18歳で学業を終えた後[5]グロスタシャーサイレンセスターという町で不動産管理の職に就いたが、向いていないと感じたため、1962年に同国の首都であるロンドンに移った[3]

ドライバー[編集]

ロンドンに移った後、最初はレストランのウェイターとして働いていた[5]。この時、同市西部のシェパーズ・ブッシュに本拠地を置いていたレーシングチームのシロッコ・パウエルチーム英語版が偶然そのホテルを訪れたことをきっかけとして[5]、同チームでチームバンの運転手兼セールスマネージャーとして雇われ、この仕事を糸口に自動車レースに関わり始めるようになった[3]

1963年頃のこの時期に、ホースリーは、ピアス・カレッジジョナサン・ウィリアムズフランク・ウィリアムズといった当時のF3ドライバーたちとともにハーロウ区ピナーロード(Pinner Road)の住居で生活を共にし[4][6]、そこをよく訪れていたヨッヘン・リントらとも知り合った[3][5]。ほどなくして、ホースリーも自身のF3車両を入手し(詳細は別記)、1964年には自分の車両をバンに載せ、フランク・ウィリアムズと共に、バンで寝泊まりしながらヨーロッパの各国を回ってF3レースに参戦するようになった[3][4][5]。この際、イギリスではレーシングカー用の部品を簡単に入手できた一方で大陸側では入手性が良くなかったことを利用し、ホースリーはそれらを大陸側に拠点を持つチームたちに販売することで資金を稼いだ[5]

そのレース生活は、その年のニュルブルクリンクにおけるF3レースで車両を大破させてしまい[注釈 2]、レースに出る手段を失ってしまったことで終わりを迎えた[3][5]

その後の数年間もレースには関わり続けたが、クリス・アーウィン(1968年の事故で引退)、カレッジ(1970年6月に事故死)、リント(1970年9月に事故死)といった親しいレース仲間たちが立て続けにいなくなったことで、モータースポーツから離れることを決心した[5]

しばらくはテレビのコマーシャルに出演するなどしつつ[3]、当てもなくいたところ、元ドライバーのニッキー・フォン・プロイセン(Nicky von Preussen)からブータンへの旅に誘われ、彼とともに古いランドローバーに乗り、インドネパールを1年ほど旅して回った[3][4][5]

ヘスケス[編集]

チーム設立 (1972年)[編集]

ブータンへの旅から戻った後(1971年後半)、ホースリーはロンドン近郊で中古車販売業を始めて糊口をしのいだ[3]。しばらくして、再びモータースポーツについて考え始めていた頃、旅行前に知り合っていたアレクサンダー・ヘスケス男爵(以下「ヘスケス卿」)と再会した[5][3][7][8]

ヘスケス卿もまたモータースポーツに強い関心を持っており、レーシングチームを設立するということで意気投合し、1972年に「ヘスケス・レーシング」を二人で設立した[3]。F3に参戦することは決めたが、オーナーのヘスケス卿自身がドライバーをするのはあまりにもリスクがあるということで、ドライバーはホースリーが務めた[3]

ホースリーはF3車両を立て続けにクラッシュさせ、そんな時、ジェームス・ハントを新たに雇い、当初はホースリーとの2台体制で参戦していたが、ほどなくホースリーはチームマネージャーに専念することになった[3][8]

ハントを見つけてきたのはホースリーで、1972年5月にベルギーで開催されたF3レースに際して偶然知り合った[9][2](詳細は別記)。当時F3ドライバーだったハントは「スピードは速いが、クラッシュの多い男」として評判は良くなかったが、ホースリーとヘスケス卿は「ヨーロッパのほとんどのサーキットでフェンスにぶつかった経験がある」と言われていたハントについて、他のドライバーにはない何かを体得しているに違いないと考えて白羽の矢を立てた[8]

1973年 - 1975年[編集]

1975年オランダGP(英語版)のハント(手前、#24)とラウダ(奥)[注釈 3]
1975年オランダGP英語版ハント(手前、#24)とラウダ(奥)[注釈 3]

チームは1973年からフォーミュラ1(F1)への参戦を始め、1975年シーズンにはハントがオランダグランプリ英語版で、チームにとってF1の世界選手権で初で唯一となる優勝をもたらした[10][2][注釈 4]。この年のF1はフェラーリニキ・ラウダに席巻されており、ラウダはオランダGP前の3戦を連勝し、このレースでもポールポジションを手中に収めており、圧倒的に有利と見られていた[10]。しかし、決勝レース直前の大雨によりウェット路面となったことでホースリーとハントは賭けに出ることを決断し、保守的にウェット路面用のセッティングをしたライバルたちとは逆に、ドライ路面用のセットアップでレースに臨んだ[11][10]。この作戦は当たり、レース途中で路面が急速に乾き、全車がピットストップを終えた時点でハントは首位に立っていた[11][10][注釈 5]。レース終盤、ハントはラウダからの猛追をしのぎきり、自身にとってもF1で初となる優勝を手にした[11][10]

チームはこの1975年シーズンに年間の選手権ランキングでも4位に入るという活躍を見せたが、同年11月、資金難のため、ヘスケス卿はチームを撤退させる旨の発表を行った[12][2]

1976年 - 1978年[編集]

ホースリーはヘスケス卿からチームの指揮を引き継ぎ、1976年から1978年にかけてチームを率いたが、その3年間でチームは1ポイントも獲得できないほどの低迷を続け、1978年限りでチームは活動を完全に停止した[2]

その後[編集]

ヘスケスの活動が終了した後、ホースリーはモータースポーツとの関わりは薄くなり、事業を営んで裕福に暮らし[6]、およそ40年後の2022年現在は、「Angry Squirrel」という有機グラノーラを扱った事業を営んでいる[5]

人物[編集]

恰幅が良く、ヘスケス・レーシングではオーナーのヘスケス卿と風貌が似通っている。ヘスケスで車両設計者を務めていたハーベイ・ポスルスウェイトが1999年に55歳で死去した際、その葬儀に参列したホースリーは「こんなのない。オレたちみたいな不摂生し放題のデブを残して、ドクが先に逝っちまうなんてさ……」と嘆息したという[6][注釈 6]

通称[編集]

通称の「バブルス」(Bubbles)は、ホースリーが入手した最初のレーシングカーであるロータスF3の売主で、当時、女性ドライバーとしてよく知られていた「ブルーベル・ギブス」(Bluebell Gibbs)の名に由来する[3][5]。彼女からF3車両を入手したことにより、それまでチームバンの運転手だったホースリーはレーシングドライバーとしてF3レースで走るようになった[3]

エピソード[編集]

  • 後にウィリアムズを創設するフランク・ウィリアムズとはF3時代からの付き合いで、1960年代、ホースリーとウィリアムズは他のレース仲間たち(ボヘミアンレース集団)とともに上述のピナー・ロードで共同生活を送り[6]、F3時代のヨーロッパ転戦も共に行った。所有していたブラバムのF3車両をニュージーランドに送ろうとしたある時、ウィリアムズによってタイヤを全て持ち去られるという悪戯を仕掛けられたことがある(ウィリアムズは自身のF3車両に装着するタイヤが他になかったからだと言い訳した)[6]。この10年後、ウィリアムズが自身のチームで走らせるためヘスケス・308Cの購入を申し出た際、売却に応じたホースレイは、タイヤを全て外した状態で車両を送った[6]
  • ジェームス・ハントとの出会いは偶然に近いものだった。1972年のハントはマーチのF3ワークス(STP・マーチ)で走っていたが、それまでの度重なるクラッシュにより、5月にベルギーのシメイ・サーキット英語版で開催されたレースの時点でマーチから契約を解除され、ドライバーキャリアの後がなくなっていた[9][1][5]。そのタイミングで、ホースリーはトイレで偶然にハントと隣同士になった際の世間話で事情を知り[5]、ヘスケス卿にハントの起用を進言した[9]。ハントの悪評を耳にしていたヘスケス卿は当初はハントの起用に難色を示していたが、ホースリーは自分がドライバーを続け「ハントはナンバー2」とする、という妥協案でハントの起用についてヘスケス卿の同意を得た[9]。レースから足を洗うことを考えていたハントだったが、以降はヘスケスとともにキャリアのステップを駆け上がり、ハントは、自虐を込めて「オレのプロフェッショナルキャリアはトイレで始まった」と言ってこの話を後々まで持ちネタにした[9]
  • ヘスケス・レーシングのドライバーだったジェームス・ハントはレース週末になると緊張し、情緒不安定になるという癖を持っていた[1]。チームマネージャーを務めていたホースリーは、そうしたハントの性格を「ドライバーに向いていないのではないか」とも考えたが、やがてその性格を利用するようになった[1]。予選の残り時間が20分となったタイミングで、車両のリアをハントが乗ったままの状態でジャッキアップして「問題があるからこれから直す」と嘘をついてハントを怒らせ、タイミングを見てコースに出し、怒りと興奮のままに走ったハントは(緊張を忘れて)速い予選タイムを出した[1]。この方法はハントとヘスケスの予選結果の良さに寄与したと言われている[1]

関連作品[編集]

映画
漫画

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 姓の日本語表記は主に「ホースリー」[1]と「ホースレー」[2]のふたつがある。この記事ではメディア等で用いられていることが比較的多い「ホースリー」を用いる。
  2. ^ すぐ前を走っていた友人のフランク・ウィリアムズがコース外に飛び出し木々の中に突っ込むクラッシュを起こし、それに気を取られたことで、ホースリーも全く同じクラッシュをしてしまった[5]
  3. ^ このレースまでのハントはレースをリードすることに不慣れで、前に車がいなくなると後ろを気にし過ぎてミスを犯すことが多かったが、ラウダをリードして獲得したこのレースの優勝が転機となり、以降、そうしたミスを犯すことはなくなったとホースリーは述べている[1]
  4. ^ F1の非選手権レースでは、ハントとヘスケスチームはこれ以前にも優勝したことがある。
  5. ^ スタート直後、ハントは4位を走行していたが、他のドライバーがレインタイヤを履く中、6周目にピットインしてドライタイヤに変更した[11]
  6. ^ この「オレたち」は、自身とジャーナリストのアラン・ヘンリー英語版を指している[6]。「ドク」はヘスケスにおけるポスルスウェイトの愛称[13]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g F1モデリング Vol.57、「Beautiful Days」(小倉重徳) pp.14–15
  2. ^ a b c d e RacingOn Archives Vol.15、「ヘスケス 戯れ以上、歴史未満」(サム・コリンズ) pp.31–39 ※初出はNo.493 pp.33–41
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Anthony ‘Bubbles’ Horsley” (英語). Hesketh Racing. 2023年2月23日閲覧。
  4. ^ a b c d e The heavily censored history of Hesketh Racing(O'Brien 1974)、「Bubbles - Guru Extraordinary」 p.6
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Simon Arron (2022年9月). “The fiery trail blazed by Hesketh Racing: from F3 to F1” (英語). Motor Sport Magazine. 2023年2月23日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g F1 Racing 日本版 2009年6月号、「HESKETH モータースポーツ界を代表する"小さな巨人"」(アラン・ヘンリー) pp.50–53
  7. ^ Lord Hesketh ‘Le Patron’” (英語). Hesketh Racing. 2023年2月23日閲覧。
  8. ^ a b c オートスポーツ 1974年8/1号(No.148)、「若干23歳のF-1チーム・オーナー トーマス アレキサンダー ヘスケス卿」(Eoin S. Yong) pp.84–87
  9. ^ a b c d e RacingOn Archives Vol.09、「ジェームス・ハント 自由奔放に駆け抜けたレーシングライフ」(マイク・ドットソン) pp.62–67 ※初出はNo.455 pp.64–69
  10. ^ a b c d e When the playboys beat the big boys - remembering Hesketh’s amazing Zandvoort win” (英語). Formula1.com (2015年6月22日). 2023年2月23日閲覧。
  11. ^ a b c d オートスポーツ 1976年8/15号(No.199)、「ドライバーズプロフィール4 ジェームス・ハント / ヨッヘン・マス」(折口透) pp.113–116
  12. ^ オートスポーツ 1976年1/15号(No.186)、「ヘスケス・レーシング撤退! その噂と真相を探る」(ダグ・ナイ) pp.68–70
  13. ^ Harvey ‘The Doc’ Postlethwaite” (英語). Hesketh Racing. 2023年2月23日閲覧。

参考資料[編集]

書籍
  • Anna O'Brien (edit) (1974). The heavily censored history of Hesketh Racing. GBM Editorial Associates 
雑誌 / ムック
  • 『オートスポーツ』(NCID AA11437582
    • 『1974年8/1号(No.148)』三栄書房、1974年8月1日。ASB:AST19740801 
    • 『1976年1/15号(No.184)』三栄書房、1976年1月15日。ASB:AST19760115 
    • 『1976年8/15号(No.199)』三栄書房、1976年8月15日。ASB:AST19760815 
  • 『Racing On』(NCID AA12806221
    • 『No.455 [ニキ・ラウダ]』三栄書房、2011年11月14日。ASIN 477961323XISBN 978-4-7796-1323-4ASB:RON20111001 
    • 『No.493 [70年代F1キットカーの時代]』三栄書房、2018年3月17日。ASIN B073R6R1FHISBN 978-4-7796-3543-4ASB:RON20180201 
  • 『Racing On Archives』
  • 『F1モデリング』
  • 『F1 Racing 日本版』

外部リンク[編集]