アレクサンダー・ファーマー=ヘスケス (第3代ヘスケス男爵)

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第3代ヘスケス男爵
アレクサンダー・ヘスケス
Thomas Alexander Fermor-Hesketh,
3rd Baron Hesketh
生年月日 (1950-10-28) 1950年10月28日(73歳)
出生地 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
出身校 アンプルフォース・カレッジ英語版
所属政党 保守党 (2011年まで)
イギリス独立党 (2011年以降)
称号 第3代ヘスケス男爵英語版
配偶者 クレア・ワトソン

内閣 第3次サッチャー内閣英語版
第1次メージャー内閣英語版
在任期間 1990年11月2日 - 1991年5月21日
国王
首相
エリザベス2世
マーガレット・サッチャー
ジョン・メージャー

内閣 第3次サッチャー内閣
在任期間 1989年1月31日 - 1990年11月2日

在任期間 1971年10月28日 - 1999年11月11日
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トーマス・アレクサンダー・ファーマー=ヘスケス[1](Thomas Alexander Fermor-Hesketh, KBE, PC1950年10月28日[2] - )は、イギリスの世襲貴族連合王国貴族)であり政治家。第3代ヘスケス男爵。一般には単に「アレクサンダー・ヘスケス」の称が用いられることが多く、メディアにおいては「ヘスケス卿」(Lord Hesketh)ともしばしば通称される。

政治家としては、保守党の政治家として、1980年代末から1990年代前半にかけてサッチャー内閣メージャー内閣で公職を歴任した。(→#政治家

自動車レースのフォーミュラ1(F1)において、1970年代に参戦していたヘスケス・レーシングの創設者・オーナーとしても知られる。(→#モータースポーツ

経歴[編集]

1955年6月、ヘスケスが4歳の時に、父親の第2代ヘスケス男爵フレデリック英語版が39歳の若さで死去し、ヘスケスは同年10月6日に父の男爵位を受け継いだ[W 1]

長じて、ヘスケスはヨークシャーに所在するアンプルフォース・カレッジ英語版というパブリックスクールに通っていたが[2][W 1]、15歳の時に同校を退学した[W 1]。ヘスケスは当時から学問よりもビジネスに興味を持っており、その中でも特に自動車ビジネスに関心が向いていたことから、16歳の時にまずレスターシャーの中古車販売会社に就職し、そこで2年ほど働いた[2][W 1]

その後、アメリカ合衆国のサンフランシスコに渡り、同地の証券会社ディーン・ウィッター英語版で1年半働き[W 1]、そこで財務管理についての知識を深めた[3]。その後はさらに香港(当時はイギリス領)に移り住み、船舶売買の仲介会社で働いた[W 1]

政治家[編集]

1971年にイギリスに帰国し、21歳の誕生日に父親の財産を正式に相続し、様々な事業を始めた[2][W 1]。(→#事業

ヘスケス男爵家は貴族院に議席を有していたことから、ヘスケスは相続を受けた1971年から議員資格も持ったが、政界に積極的に関与することはせず、実際に政治家としての活動を始めたのは、1984年10月12日に当時のイギリス首相であるマーガレット・サッチャーIRAによる爆破テロに遭ったことを契機としている[W 1]。1980年代半ばのある日、サッチャーはヘスケス邸を訪れ、貴族院の職務を果たすようヘスケスに述べ、それからヘスケスはサッチャーの下で働くようになった[W 1]

ヘスケスは1986年に保守党内の役職である貴族院院内幹事(Government Whip)に就任し[W 2]、保守党政権であるサッチャー内閣においては、1980年代末に環境庁英語版政務次官閣外大臣のひとつである産業大臣英語版を歴任し、後任のメージャー内閣においても引き続き産業大臣を務めた[W 1]。メージャー内閣においては、大臣退任後に、名誉職である儀仗衛士隊隊長にも任じられた(1991年5月 - 1993年9月)[W 1]。保守党の党内においても、1991年から1993年にかけて保守党貴族院院内幹事長英語版(Government Chief Whip)という要職を務めた[W 2]

1999年貴族院法による貴族院改革に伴い、ヘスケスは議席を失った。この改革では世襲貴族の内の92家には議席の保持が許されたが(一覧)、ヘスケス男爵家はそのひとつに選ばれなかったためである。

議席を失った後も保守党への所属は続け、2003年に党の会計に就任し[W 3][W 4]、2005年にかけて務めた[W 2]

2011年10月10日、ヘスケスはイギリス独立党に移籍した[W 3]。これは、当時のイギリス首相で保守党の党首だったデーヴィッド・キャメロンが「イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票」の実施に否定的な考えを示し、そのことにヘスケスが失望(激怒)したことによるものである[W 3][W 4][注釈 1]。移籍後、ヘスケスはイギリス独立党に2011年から2012年の間だけでおよそ31,000ポンドの寄付をしたと言われている。

事業[編集]

私がいろいろと事業を始めたのは、使うための金を儲けるためだ。他の人のように金を貯めるために儲けるのではない。(中略)親から相続した財産を減らしてしまっては申し訳がない。それで、自分の生きていく分は自分で稼ごうと考えたのだ。[2]

—アレクサンダー・ヘスケス(1974年)

1971年、21歳の誕生日をもってヘスケスは家の財産を正式に相続し、それを契機に数々の事業を始めた[2][W 1]

この頃、早くから青年実業家として名を成し、1970年代前半の時点でドン・ペリニヨンモエ・エ・シャンドン)の共同経営者としても知られていた[2]

モータースポーツ[編集]

モーター・レーシングは、私にとってホビー(道楽)などというものではない。人生そのものなのだ……[2]

—アレクサンダー・ヘスケス(1974年)

ヘスケス男爵家が住んでいたイーストン・ネストン(後述)はシルバーストン・サーキットにも近く[4][W 1]、ヘスケスは子供の頃から自動車レースに情熱を持っており、1972年に自身のレーシングチームであるヘスケス・レーシングを設立した。このチームは1973年からフォーミュラ1(F1)に参戦し、ヘスケス自身は1975年までチームに関与した。

チーム設立 (1972年)[編集]

1971年にヘスケスがイギリスに帰国し、父の遺産を相続した頃、ヘスケスはアンソニー・ホースリー(通称「バブルス」)と知り合い、自身のレーシングチームの設立を決意した[3][1][W 1]

1972年にヘスケスがホースリーと立ち上げた「ヘスケス・レーシング」はホースリーをドライバーとしてフォーミュラ3(F3)に参戦し、結果は芳しくなかったものの、あくまで道楽としてのものであり、楽しめれば良いという考えだった[5]

次いで、ホースリーが見つけてきたジェームス・ハントを擁して、1972年終盤にフォーミュラ2(F2)に参戦し、翌1973年はF2にフル参戦する予定を立てていた[5][W 5]。しかし、入手したマーチサーティースの2台のF2車両をハントがクラッシュさせてしまい[1]、ヘスケスは「F2をこんなに壊すことを考えれば、F1を大事に使ったほうが、むしろ出費は少ないに違いない」と判断して(F2を飛び越え)F1へのステップアップを図った[2][W 6]。これには、F1であれば露出効果や賞金の額が大きいので、総合的にはメリットがあるのではないかという皮算用もあった[1][5]

F1参戦 (1973年 - 1975年)[編集]

ヘスケス・308のコクピットに収まったジェームス・ハント(1974年)

F1参戦初年度の1973年マーチ・731を入手し、この時に同車の設計者であるハーベイ・ポスルスウェイトとエンジニアのナイジェル・ストラウドの引き抜きに成功し[6][W 7]、ポスルスウェイトの加入はチームにとって大きな力となった[2][5][注釈 2]

参戦を始めた当初は「金持ちの道楽」と揶揄する声もあったが[2]、参戦2年目の1974年からはポスルスウェイトによって開発された独自車両の「ヘスケス・308」を投入し、1975年シーズンにハントがオランダグランプリ英語版で優勝し、チームは年間の選手権ランキングでも4位に入るという活躍を見せた[5][W 8][W 5]

チームの運営資金はヘスケス個人が経営する他の事業から捻出され、年間25万ポンドほどで運営されていた[7][注釈 3]。これは、パドックでの豪華な料理などで演出していたパブリックイメージとは異なり、タバコメーカーなどの大きなスポンサーを持っていた他チームと比べ、チームの運営予算は小さく[3][8][注釈 4]、財務面はヘスケスの管理により効率的に運営されていた[3]。当初は潤沢な資金であるように見えていたが、この時期にイギリスを襲ったインフレーション(「英国病」を参照)の影響を受け、1975年シーズンにチームは資金難に陥り始め[10][6]、同年11月に撤退を発表した[7][11][5]

ヘスケスのF1車両は他のチームが買い取って使用が続けられたほか、翌1976年から1978年シーズンにかけてヘスケス・チームとしても参戦を続けているが、これはホースリーがチームを引き継いで参戦を続けたもので、イーストン・ネストンの施設は引き続き使用されたが、ヘスケスの手からは既に離れた活動となる[5]。ヘスケスだけでなく、ハントとポスルスウェイトも1975年限りでチームから離脱しており、ホースリーが率いた3年間の参戦でチームの成績は低調なものに終わった[W 6]

一方、ヘスケスとホースリーが発掘した人材はその後に名を成し、F3時代に「スピードは速いがアクシデントの多い男」という評判で低く評価されていたハントは[2]、1976年にマクラーレンでF1ワールドチャンピオンを獲得した。ポスルスウェイトは、自身が開発したヘスケス・308Cとともにウルフ-ウィリアムズに移籍し[1]、後にF1の車両設計者として大成することになる。

(F2、F1への進出について)何の気なしに始めたことだから、戦略とかプランなんてものは何もなかった。何をやりたいのか、プロジェクトの目標がどこにあるのかも決まっていなかった。だが、ジェームスがかなり走れたから、ちょっとコミットしてみるか、と思ったんだ[5] — アレクサンダー・ヘスケス
どうしたらF1で勝てるか、そのすべてを教えてくれたのがヘスケス・レーシングだ。あのチームはもっと勝ってよかったと思うが、1勝しかプレゼントできなかった[6] — ジェームス・ハント

その後[編集]

1993年から2000年にかけて、ヘスケスはイギリスグランプリの運営を行うブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ英語版(BRDC)の会長を務めた。

ヘスケス・モーターサイクル[編集]

ヘスケス・V1000

ヘスケスは1977年にオートバイの製造に向けた調査を始め、同年末に事業化を決定し、ヘスケス・オートモーティブ・プロダクツ社を設立した[12]。エンジンはF1時代に関係のあったハリー・ウェスレイクが手掛け、車体の設計と製造はF1時代から残っていた者たちが行い、翌1978年末には試作車が完成し[12]、その後も数年をかけて開発が進められていった。

1980年代に入って市販化の目途が立ち、ヘスケス・V1000英語版と名付けたオートバイを発表し、1982年にヘスケス・モーターサイクル英語版を設立し、ダベントリー英語版に近代的な工場設備を建設した[13]。しかし、同社製オートバイは、重量は重く、乗車位置は高く、信頼性は低い、という多くの問題があるもので、製造上の問題により、吸気が悪くエンジンシリンダーがオーバーヒートを起こす不具合まで抱えたものとなった。熟成不足の製品であることが知れ渡ったことで、事業は行き詰まり、このバイクの製造台数は139台に留まり、同社は管財人の管理下となった。

この時期に再建されようとしていたトライアンフ・モーターサイクルは、製品ラインナップがトライアンフ・ボンネビルしかなかったため、V1000の製造権の購入に興味を示したが、同社にもV1000を改良する資金はなかったため、この話は実現しなかった。

ヘスケスは、新たにHesleydon社を設立して、V1000の改良型を生産したが、その欠点を解消することはできず、40台を製造した後、1984年にヘスケスは同社を従業員のミック・ブルーム(Mick Broom)に売却し、自身は経営から手を引いた(イーストン・ネストンの施設はブルームに貸与し引き続き使用が続けられた)[W 9]

バブコック[編集]

バブコック社傘下のロサイス造船所英語版で建造中の空母クイーン・エリザベス(画像は2014年)

1993年10月6日に、イギリスの軍需企業であるバブコック英語版の取締役会に非常勤取締役として加わり、1996年4月26日に同社の非常勤副会長(non-executive Deputy chairman)に就任した[W 10]

同職を長く務めていたが、2010年、同社が建造に深く関わっていたイギリス海軍クイーン・エリザベス級航空母艦1番艦は2009年に起工)について、同級の建造計画がイギリスを「物笑いの種」(laughing stock)にするだろうと述べていたことが報じられてスキャンダルとなり、辞任を余儀なくされ、同年11月に職を退いた[W 10]

航空事業[編集]

1994年、ブリティッシュ・メディテレーニアン・エアウェイズ英語版(イギリス地中海航空)の設立に関与し[W 2]、同社が2007年にブリティッシュ・ミッドランド航空によって3000万ポンドで買収されるまで、会長職を務めた。

航空事業では、その後もカザフスタンフラッグ・キャリアであるエア・アスタナでも役員を務めていたことがある。

イーストン・ネストン・ハウス[編集]

イーストン・ネストン・ハウス

ヘスケス男爵家は、ノーサンプトンシャーイーストン・ネストン・ハウス英語版という邸宅を、8,000エーカー(約3,240ヘクタール)に及ぶ広大な敷地とともに所有していた[4]

厩舎[編集]

敷地には住居としている邸宅の他にもいくつかの建物があり、その中に馬小屋(厩舎)として古くから使用されていた建物があった。この馬小屋は、1900年代の初めに祖父の初代ヘスケス男爵トーマス英語版がそこで自動車を製作していたこともあるというもので、この建物はその後は男爵家の車庫として使用されていた[2]。1970年代に入って、ヘスケスがレーシングチームの設立を計画した際、車両製作のため都会に工場を借りることも考えたが、この「馬小屋」を使用することを最良と考え、この建物にヘスケス・レーシングの作業場が置かれた[2][5]

F1からの撤退後もヘスケスは残ったエンジニアたちの雇用を維持してこの作業場の使用を続け、F1に参戦している他のコンストラクター(車両製造者)の仕事を請け負い、この施設では、車両の研究開発やエンジンのオーバーホール、車体部品の製造などが1980年代まで続けられ、チーム・ロータスリジェのF1/F2車両のいくつかはこの作業場で製造された[11]

1970年代後半からはヘスケス・モーターサイクル[11]、次いで、その製造権を引き継いだブルーム社英語版もまた、この「馬小屋」をオートバイ製造のための作業場として2006年まで使用した[W 9]

この「馬小屋」はそれらの作業に充分な規模があり、四輪の作業と二輪の作業の両方が行われていた1980年頃、それらは隣り合った別々の建物で行われていた[11]

売却[編集]

2000年代に入ってヘスケスが経済的な困難を抱えたことにより、ヘスケスは2000年代半ばにその土地建物の多くをファッションデザイナーで実業家のレオン・マックス英語版に売却した[14][W 9]

売却後も、2013年公開の映画『ラッシュ/プライドと友情』では、ヘスケス邸として撮影が行われている(外観のみ)[W 11]

人物[編集]

F1に参戦を始めた1970年代初め(20代前半)の当時、体重120 kgの恰幅のよい人物として知られた[2]

愛国心の強い人物であり、ヘスケス・レーシングのカラーリングをイギリスの国旗に基づき白を基調に赤と青のラインを配したカラーリングにするなど[1][W 9][注釈 5]、自身の愛国心をしばしば目に見える形で表明している。見方や発言によっては、その言葉には貴族的な厚顔無恥さと排他的民族主義の臭いが感じられるとも言われている[5]

F1では豪華な料理や酒をパドックに持ち込み、そのスタイルを転戦先のあらゆるサーキットで貫いていた[8](資金が潤沢だった1974年まで)。これは、当時としてはとんでもなく豪華でお洒落なものとみなされたが(当時の保守的なイギリス人ジャーナリストたちからは顰蹙を買った[6])、後のF1のパドッククラブではむしろヘスケスの持ち込んだこのスタイルが主流となった[8][注釈 6]

家族[編集]

ヘスケスは3人兄弟の長男にあたる[2]。母クリスチャン・メアリー・マキュアン英語版[注釈 7]は、夫フレデリックの死去後、ノーサンプトンシャーにおいて地方政治家として活動した。

ヘスケス自身は1977年5月21日に、マントン男爵家英語版出身のクレア・ジョージナ・ワトソン(Claire Georgina Watson)と結婚し、3人の子供をもうけた[W 1]

エピソード[編集]

  • F1に参戦していたヘスケス・チームはスポンサーを付けておらず[W 6]前述したように、ヘスケス個人の事業によって運営費が賄われていた[7]。1975年に資金不足に陥った際、ヘスケスは他社に資金提供を依頼しようとして交渉を行い、アトランティック・レコードテキサコ石油といった大手企業がスポンサーとなることに強い関心を示していたのだが、いずれの交渉も不調に終わった[7]。その原因として、チーム名を「アトランティック・ヘスケス」としたいと希望したアトランティック・レコードに対しては、むしろレコードにヘスケスの名を付けたほうが良いと考えて話を断り、ハボライン英語版(Havoline。ハボリン)ブランドの宣伝手段として興味を示していたテキサコに対しては、むしろブランド名を「ヘスカライン」(Heskaline)という名にしたほうがよいと提案するなど、ヘスケスの自己中心的な考え方が大きく影響したと言われている[7]。また、ヘスケスはチームの価値を吊り上げ、3年間のスポンサー料として150万ポンドを要求するといった自信過剰な交渉を行い、こうした対応が嫌気され、交渉開始当初は協賛に乗り気だったスポンサー候補まで相次いで離れていくという結果を招いた[7]

関連作品[編集]

映画
漫画

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 同年に、この国民投票を求める10万の署名が保守党に提出されていた。この時は実施拒否の意向が示されたが、この投票は2016年に実現して離脱支持派が上回り、2020年にイギリスはEUから離脱した。
  2. ^ この移籍はポスルスウェイトにとっても大きな意味を持つものになった。当時のマーチ・エンジニアリングロビン・ハードが技術面を取り仕切っており、その影に隠れていたポスルスウェイトは、自身の手腕を自由に振るえる環境をヘスケスで初めて得た[2]。ストラウドは後にヘスケス・308D308Eの開発を主導する(さらに後年のマツダ・787B等のグループC車両の設計者としても著名)。
  3. ^ 1973年から1975年までの3年間で総額35万ポンドという説もある[8]
  4. ^ フィリップモリス1972年からマールボロブランドでF1におけるスポンサー活動を始め、モータースポーツ活動全体で年100万ドル程度の広告費を投じていた[9]
  5. ^ これは「イギリス代表チーム」として目立つことをヘスケスが望んだためだと言われている[1]。1974年からチームロゴにヘルメットを被ったテディベアのイラストを採用した際、そのロゴには「英国のために、あなたのためにレースをします」という言葉が添えられた[1]
  6. ^ F1以外では、ル・マン24時間レースでは草創期の1920年代からパドックがこうした豪華な料理などを伴った社交場と化していた例があり[15]、ヘスケスが持ち込んだスタイルは、自動車レース全体で初の例というわけではない。
  7. ^ 1930年代に駐日英国大使を務めたフランシス・リンドリーの孫(娘の子)にあたる。
  8. ^ ヘスケス関連の主な相違点(フィクション)は、ハントとポスルスウェイトがF3時代(1970年)からヘスケスのチームに所属している点、1973年のF2時代が描かれない点、マーチ・731が登場せず1973年からヘスケス・308が登場する点(ラウダはBRMに所属していた1973年時点では308と競っていない)、1973年時点でヘスケスがテディベアのロゴを使っている点(実際には1974年から使い始めた[2])、作業場となった邸宅(イーストン・ネストン)をF1撤退に伴って手放すとヘスケスが言っている点(実際には2006年に売却)[W 12]、など。

出典[編集]

出版物
  1. ^ a b c d e f g h F1モデリング Vol.57、「Beautiful Days」(小倉重徳) pp.14–15
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r オートスポーツ 1974年8/1号(No.148)、「若干23歳のF-1チーム・オーナー トーマス アレキサンダー ヘスケス卿」(Eoin S. Yong) pp.84–87
  3. ^ a b c d The heavily censored history of Hesketh Racing(O'Brien 1974)、「Alexander-Le Patron」 p.5
  4. ^ a b RIDERS CLUB 1981年2月号(No.32)、「ヨーロッパ便り HESKETH 1000」(ジェフ・ジョンソン インタビュー 聞き手・いわたげん) pp.19–27中のp.19
  5. ^ a b c d e f g h i j RacingOn Archives Vol.15、「ヘスケス 戯れ以上、歴史未満」(サム・コリンズ) pp.31–39 ※初出はNo.493 pp.33–41
  6. ^ a b c d RacingOn Archives Vol.09、「ジェームス・ハント 自由奔放に駆け抜けたレーシングライフ」(マイク・ドットソン) pp.62–67 ※初出はNo.455 pp.64–69
  7. ^ a b c d e f オートスポーツ 1976年1/15号(No.184)、「ヘスケス・レーシング撤退! その噂と真相を探る」(ダグ・ナイ) pp.68–70
  8. ^ a b c d F1 Racing 日本版 2009年6月号、「HESKETH モータースポーツ界を代表する"小さな巨人"」(アラン・ヘンリー) pp.50–53
  9. ^ オートスポーツ 1973年3/15号(No.113)、「ミリオン・ダラーのマルボロ73年計画の全ぼう」(Jane Mase) pp.100–101
  10. ^ オートスポーツ 1975年8/1号(No.173)、「《特別インタビュー》ロード・ヘスケス 分岐点に立つヘスケス・レーシング」(Barrie Gill) pp.81–82
  11. ^ a b c d RIDERS CLUB 1981年2月号(No.32)、「ヨーロッパ便り HESKETH 1000」(ジェフ・ジョンソン インタビュー 聞き手・いわたげん) pp.19–27中のp.23
  12. ^ a b RIDERS CLUB 1981年2月号(No.32)、「ヨーロッパ便り HESKETH 1000」(ジェフ・ジョンソン インタビュー 聞き手・いわたげん) pp.19–27中のp.20
  13. ^ RIDERS CLUB 1981年2月号(No.32)、「ヨーロッパ便り HESKETH 1000」(ジェフ・ジョンソン インタビュー 聞き手・いわたげん) pp.19–27中のp.26
  14. ^ 『デイリー・テレグラフ』2005年7月13日
  15. ^ モーターレース千夜一夜(ガレット/柏木1970)、p.171
ウェブサイト
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Lord Hesketh ‘Le Patron’” (英語). Hesketh Racing. 2023年2月23日閲覧。
  2. ^ a b c d Lord Hesketh”. The Conservative Foundation (2009年). 2009年1月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月23日閲覧。
  3. ^ a b c Ex-treasurer Lord Hesketh quits Tories for UKIP” (英語). BBC (2011年10月11日). 2023年2月23日閲覧。
  4. ^ a b Former Conservative treasurer defects to Ukip” (英語). Guardian (2011年10月11日). 2023年2月23日閲覧。
  5. ^ a b Simon Arron (2020年6月22日). “Zandvoort 1975: Hesketh Racing's only Grand Prix win” (英語). Motor Sport Magazine. 2023年2月23日閲覧。
  6. ^ a b c Laurence Edmondson (2010年7月21日). “トップ10:チーム代表”. ESPN F1. ESPN. 2020年9月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月23日閲覧。
  7. ^ Simon Arron (2022年9月). “The fiery trail blazed by Hesketh Racing: from F3 to F1” (英語). Motor Sport Magazine. 2023年2月23日閲覧。
  8. ^ When the playboys beat the big boys - remembering Hesketh’s amazing Zandvoort win” (英語). Formula1.com (2015年6月22日). 2023年2月23日閲覧。
  9. ^ a b c d Alan Cathcart (2017年6月29日). “The British Hesketh Motorcycle” (英語). Motorcyclist Online. Motorcyclist / Octane Media, LLC. 2023年2月23日閲覧。
  10. ^ a b Babcock's Lord Hesketh resigns amid carrier row” (英語). BBC (2010年11月8日). 2023年2月23日閲覧。
  11. ^ Rush - Filming & Production” (英語). IMDb. 2023年2月23日閲覧。
  12. ^ Alex von Tunzelmann (2013年9月18日). “Rush: a thrilling but untrusty ride” (英語). The Guardian. 2023年12月21日閲覧。

参考資料[編集]

書籍
  • Richard Garrett (1969). THE MOTOR RACING STORY. Richard Garrett 
    • リチャード・ガーレット(著)、柏木二郎(訳)『モーターレース千夜一夜 裏から見たレースの歴史』三栄書房、1970年12月1日。 
  • Anna O'Brien (edit) (1974). The heavily censored history of Hesketh Racing. GBM Editorial Associates 
雑誌 / ムック
  • 『オートスポーツ』(NCID AA11437582
    • 『1973年3/15号(No.113)』三栄書房、1973年3月15日。ASB:AST19730315 
    • 『1974年8/1号(No.148)』三栄書房、1974年8月1日。ASB:AST19740801 
    • 『1975年8/1号(No.173)』三栄書房、1975年8月1日。ASB:AST19750801 
    • 『1976年1/15号(No.184)』三栄書房、1976年1月15日。ASB:AST19760115 
  • 『RIDERS CLUB』(NCID AA1294222X
    • 『1981年2月号(No.32)』枻書房、1981年2月1日。ASIN B018XBWA9G 
  • 『Racing On』(NCID AA12806221
    • 『No.455 [ニキ・ラウダ]』三栄書房、2011年11月14日。ASIN 477961323XISBN 978-4-7796-1323-4ASB:RON20111001 
    • 『No.493 [70年代F1キットカーの時代]』三栄書房、2018年3月17日。ASIN B073R6R1FHISBN 978-4-7796-3543-4ASB:RON20180201 
  • 『Racing On Archives』
  • 『F1モデリング』
  • 『F1 Racing 日本版』
配信動画

外部リンク[編集]

党職
先代
第2代デナム男爵英語版
保守党貴族院院内幹事長英語版
1991年 – 1993年
次代
第2代アルスウォーター子爵英語版
公職
先代
第2代デナム男爵英語版
儀仗衛士隊隊長
1991年 – 1993年
次代
第2代アルスウォーター子爵英語版
先代
ダグラス・ホッグ英語版
産業大臣英語版閣外大臣のひとつ
1990年 – 1991年
次代
(空位)
先代
バージニア・ボトムリー英語版
環境庁英語版 政務次官
1989年 – 1990年
次代
デビッド・ヒースコート・アモリー英語版
イギリスの爵位
先代
フレデリック・ファーマー=ヘスケス英語版
第3代爵ヘスケス男爵英語版
1955年 – 受爵中
現職