江戸藩邸

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松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型

江戸藩邸(えどはんてい)は、江戸時代江戸に置かれた藩邸(屋敷)である。ただし、江戸時代当時の歴史的呼称ではなく、後世つくられた歴史用語である[1]。当時は、単に武家屋敷もしくは江戸屋敷と呼ばれ、個別の屋敷は当該屋敷を使用する武家の家名を付して○○家屋敷などと呼ばれた。

概要

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江戸時代、江戸に常住する武家には、将軍家と直接主従関係を結ぶ旗本御家人と、大名およびその家臣がいた。このうち大名、旗本、御家人には江戸幕府から屋敷用地が与えられた。

通常、大名には、江戸城周辺に幕府から与えられた用地に建てられた屋敷(拝領屋敷)のほか、江戸郊外にかけて、複数の屋敷を持っていた。これらの屋敷は当該屋敷の用途と江戸城からの距離により、上屋敷(かみやしき)、中屋敷(なかやしき)、下屋敷(しもやしき)、蔵屋敷(くらやしき)などと呼ばれ、これらを総称して江戸藩邸と呼ぶ。すべての大名が上中下の屋敷を有したわけではなく、大名の規模によっては、中屋敷を持たない家や、上中屋敷の他に複数の下屋敷、蔵屋敷を有する家など様々であった。

「藩邸」は、後世に作られた言葉で歴史的には同時代の正確な用語ではない。というのは、幕府から与えられた屋敷用地は、「」(藩の統治機構)に与えられたものではなく、「家」(藩の領主)に与えられたものだからである。そのため、領主が転封などにより藩を変えた場合や身分を変えた場合でも屋敷の所有者は変わらず[2]、例えば○藩の藩主が甲家から乙家になったとしても、それまでのいわゆる「○藩藩邸」(甲家の江戸屋敷)の所有者は甲家のままで、乙家の屋敷もそのままである。ただし、幕府の命令により(相対替えなど)身分相応の立地・面積のものに変えられることはあったが[3]、これらもあくまで「家」に対するやり取りであった。

以上のように、江戸時代には藩(行政組織・行政上の単位)の所有する屋敷(藩邸)という概念は存在せず、江戸藩邸は「各藩主家の江戸屋敷」と呼ばれていた。個別の屋敷については「◯◯家屋敷」と呼称され、通常は複数の屋敷を所有するため、例えば尾張藩の徳川家の上屋敷であれば、「尾張徳川家上屋敷」とされた。

江戸藩邸のうち、上屋敷は参勤交代制度により1年毎(大名により異なる)に江戸と本国を行き来する大名の、江戸における居住地であった。また、大名の正室嫡子は人質として江戸に常住することが定められており、上屋敷に居住した。家臣では江戸家老江戸留守居役(御城使)など江戸に在勤した役職もあるが、多くの家臣は大名の参勤交代に従って本国から江戸に移り、下級の武士は藩邸内に設けられた長屋などに居住した。貞享元年(1684年)の土佐藩の場合、江戸藩邸全体の居住者は3195人(うち上屋敷で1683人)を数えた。大名にとっては本国の居所と同様の重要な屋敷であり、格式を維持するため莫大な費用を必要とした。

江戸藩邸は幕府と藩を繋ぐ政治的な窓口の役割も果たした。幕府からの連絡は藩邸に伝えられ、その後藩邸から本国へ伝えられる。一方、本国から幕府へ連絡する場合も、藩邸を経由して伝えられた。また、江戸藩邸の内部は幕府の統制外に置かれ、仮に犯罪者が藩邸内に逃げ込んだとしても、幕府が捜査権を行使することはなかった。一方で、大藩の藩邸には将軍が直々に訪ねてくる御成りがしばしば行われ、将軍一行をもてなすために庭園能舞台を造成、改築することを余儀なくされた。元禄時代の加賀藩の例では、1回の御成りのために36万両もの大金を投じている[4]

屋敷の広さには石高による基準が存在し、元文3年(1738年)の規定では、1 - 2万石の大名で2500坪、5 - 6万石で5000坪、10 - 15万石で7000坪などとされていた。実際にはこの基準より広い屋敷も多く、上屋敷だけで10万坪にも達した加賀藩などの例もあり、厳密な適用はされていなかった。屋敷や土地は形式上幕府から借り受けたものであるが、幕府の許可を得た上で相対替え(屋敷同士の交換、差額を金銭で補う)という形を取り売買は行われた。

拝領屋敷と抱屋敷

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江戸藩邸のうち江戸幕府から与えられた土地に建てられた屋敷は拝領屋敷という。一方、大名が民間の所有する農地などの土地を購入し建築した屋敷は、抱屋敷(かかえやしき)と呼ばれる。

抱屋敷は総じて江戸の郊外にあり、下屋敷など藩により様々な用途に使用された。拝領屋敷と異なり、それまでその土地に掛けられていた年貢諸役は、大名の所有となった後も負担する必要があった。また、屋敷や土地は幕府の職の一つである屋敷改(やしきあらため)の支配を受けた。

江戸藩邸の種類

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江戸藩邸は江戸城からの距離や機能により種類があり、上屋敷・中屋敷・下屋敷といった区分で分けられていた。なお、この区分は江戸藩邸に限ったものではなく、江戸以外の藩邸や領国内の屋敷においても同様である。また、大名に限らず侍屋敷でも同様に区分されていた。以下では江戸藩邸における各屋敷について記している。

上屋敷

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日向佐土原藩江戸藩邸の長屋(綱町三井倶楽部敷地。2009年頃に取り壊され現存せず)

江戸藩邸における上屋敷は大名とその家族が居住し、江戸における藩の政治的機構が置かれた屋敷である。大名が居住するものは居屋敷(いやしき)とも呼ばれた。大名は在府中、定例の登城日や役職に定められた日など、しばしば江戸城に登城する必要があったため、通常は最も江戸城に近い屋敷が上屋敷となった。全国の大名が集まるため中屋敷、下屋敷に比べると敷地は狭くなる場合が多い。大名が江戸在府の際はここで政務を取り、大名が帰国した後は江戸留守居役が留守を預かり、幕府や領地との連絡役を務めた。

上屋敷の構成は、大きく御殿空間(ごてんくうかん)と詰人空間(つめにんくうかん)に分けられる。御殿空間は主の居室などの表御殿、正室の居室などの奥御殿や庭園などであり、詰人空間は家臣の住まいである長屋、藩の政務を行う施設や厩舎などで構成された。

中屋敷

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江戸藩邸の中屋敷は上屋敷の控えとして使用され、多くは隠居した主や成人した後継ぎの屋敷とされた。下屋敷と比較した場合、江戸城までの距離は近く、規模は小さいことが多い。中屋敷や下屋敷にも長屋が設けられ、参勤交代で本国から大名に従ってきた家臣などが居住した。

下屋敷

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江戸藩邸の下屋敷は主に庭園など別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれた。上屋敷や中屋敷と比較して規模は大きいものが多い。江戸市中はしばしば大火に見舞われたが、その際には大名が避難したり、復興までの仮屋敷としても使用された。藩により様々な用途に利用され、本国から送られる米や各種物資を貯蔵する蔵屋敷として、遊行や散策・接待のために作られた庭園として、あるいは菜園などとして転用される場合もあった。

蔵屋敷

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江戸藩邸の蔵屋敷は年貢米や領内の特産物を収蔵した蔵を有する屋敷で収蔵品を販売するための機能を持つこともあった。主に海運による物流に対応するため、隅田川や江戸湾の沿岸部に多く建てられた。藩によっては下屋敷が蔵屋敷の機能を兼ねることもあった。詳しくは「蔵屋敷」を参照のこと。

明治維新後の江戸藩邸

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明治維新後、江戸幕府所有である拝領屋敷は江戸城などと共に明治政府に接収され、跡地は主要官庁や大学や後に企業の土地などに利用された。一方、抱屋敷は引き続き所有者(大名等)に帰属したため、元大名(華族)の邸宅として利用されたり、不要なものや維持が困難になったものは政府や民間に売却されるなどした。また、関東大震災でも多くの屋敷が焼失した。昭和14年(1939年)の大熊喜邦調査によれば、大名屋敷の遺構は松江藩松平家上屋敷(赤坂)の表門、加賀藩前田家上屋敷赤門薩摩藩島津家中屋敷(外桜田)、鳥取藩池田家上屋敷、岡山藩池田家上屋敷の表門の5つのみであった[5]。さらにその後、赤門と鳥取藩池田家の表門以外はすべて東京大空襲で焼失した[5]。しかし、現在でも江戸藩邸の門を移築したと言われる門が随所に現存している(例:佐土原藩藩邸の表門や筑前秋月藩藩邸の表門)。さらに、佐倉藩藩邸の敷書院と云われるものが東京都世田谷区の豪徳寺に移築されているように、御殿もある程度残っている。

小石川後楽園新宿御苑六義園など、藩邸内に作られた庭園を保存し現在でも当時の面影を残す公園として公開されているものもある。

代表的な江戸藩邸と跡地の現在

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紀州藩邸跡(赤坂御用地、迎賓館)
水戸藩邸跡(小石川後楽園東京ドームシティ

脚注

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  1. ^ 歴史学では、江戸時代の統治構造を指して幕藩体制と呼ぶことがある。しかし、明治初年に府藩県三治制が定められるまで、「」という用語・概念が広く用いられることはなかった。江戸時代を通じて、「藩」ではなく「家」(イエ)を中心とした制度が運用された。
  2. ^ 慶長10年(1605年)に結城秀康越前藩)が拝領した麹町屋敷(上屋敷)は子・松平忠直(改易)から孫・松平光長高田藩新規立藩)に伝わった。また、元和5年(1619年)に松平忠昌(高田藩)が拝領した龍ノ口屋敷(上屋敷)は忠昌の福井藩相続後も変更されることはなく、次代藩主の松平光通に伝わり、明暦3年(1657年)の明暦の大火で消失した。ただし忠昌が「利便性」を選んだとも、兄の子を憐れんだためとも伝わる。
  3. ^ 例えば、50万石の格式を持った家が減封処分となり5万石となった場合、以降の格式・財政ではこれまでの大屋敷を維持できず「身分不相応」とされ屋敷を替えられることがあった。
  4. ^ 富山県公文書館『とやまの歴史 将軍綱吉。加賀藩本郷上屋敷御成り』富山県、1998年、p93頁。 
  5. ^ a b 金行信輔「描かれた大名屋敷」、「加賀殿再訪―東京大学本郷キャンパスの遺跡」(東京大学コレクション)。文化庁編『戦災等による焼失文化財[増訂版]建造物篇』便利堂、1983年(文化庁編『戦災等による焼失文化財』戎光祥出版 2003年

参考文献

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関連項目

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