北海道の城
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北海道の城(ほっかいどうのしろ)は北海道内及び千島列島などにかつてあった城館をとりまとめたものである。
管轄は全て開国後の蝦夷地上知および諸藩への分担警衛命令に基づく。
【陸戦台場】
[編集]- 四稜郭(函館市)
- 権現台場(函館市)
- 川汲台場(函館市)
- 桔梗野台場(函館市)
- 亀田新道台場(函館市)[注釈 5]
- 瓦野台場(函館市)[注釈 6]
- 赤川台場(函館市)[注釈 7]
- 峠下台場(七飯町)※埋蔵文化財包蔵地登載名は「七飯台場跡」[注釈 8]
- 二股台場(北斗市)
- 天狗岳台場(北斗市)
- 大野口台場(北斗市)[注釈 9]
【海防台場】
[編集]- 弁天台場(函館市)[注釈 10]
- 山背泊台場(函館市)[注釈 11]
- 押付台場(函館市)[注釈 12]
- 立待台場(函館市)[注釈 12]
- 汐首台場(函館市)
- 矢不来台場(北斗市)[注釈 13][注釈 14]
- 吉岡台場(福島町)[注釈 15]
- 白神岬台場(松前町)[注釈 16]
- 根森台場(松前町)[注釈 16]
- 寅向台場(松前町)[注釈 16]
- 城東宮前台場(松前町)[注釈 16]
- 城西町館台場(松前町)[注釈 16]
- 築島台場(松前町)[注釈 17]
- 立石野台場(松前町)[注釈 16]
- 折戸台場(松前町)[注釈 18]
- 生符台場(松前町)
【計画されるも着工に至らなかった海防台場】
[編集]蝦夷・アイヌのチャシ
[編集]- セタナイチャシ(せたな町)
- モロランチャシ(室蘭市)
- 神居古潭チャシ(旭川市)
- シベチャリチャシ(新ひだか町)
- ユクエピラチャシ(陸別町)
- リンナイチャシ(美幌町)
- モシリヤチャシ(釧路市)
- チャランケチャシ(釧路市)
- 根室半島チャシ跡群(根室市)
- チャルコロモイチャシ
- ウェンナイチャシ
- ニランケウシチャシ
- アッケシエトチャシ
- シエナハウシチャシ
- コタンケシチャシ
- ノッカマフチャシ
- サツコタンチャシ
- コンブウシムイチャシ
- トーシャム2号チャシ
- ピリカヲタチャシ
- ヲンネモトチャシ
- アフラモイチャシ
- ポンモイチャシ
脚注
[編集]- ^ 建設時および運用時の扱いは大名本拠ではないため公文書中でも城制上の取り扱いは「陣屋」であるが、遠国奉行本拠である箱館御役所の囲郭でもあり「五稜郭城」などの表記も混在するため、本項では「城」にカテゴライズした。
- ^ 日本で初めて欧州の稜堡式星形堡塁を本陣に採用。
- ^ 第一次幕領期(文化期)は仙台藩が管轄した。
- ^ 第一次幕領期(文化期)は弘前藩が管轄した。
- ^ 「薩摩出軍戦状」「弘前藩記」『復古外記 蝦夷戦記 巻之八』所収。「薩摩出軍戦状」での表記は「五稜郭新道台場」。
- ^ 「薩摩出軍戦状」『復古外記 蝦夷戦記 巻之八』所収、657頁。
- ^ 「岡山藩記」「徳川昭武家記」『復古外記 蝦夷戦記 巻之八』所収。
- ^ 同台場が築かれた箱館戦争期は該当地は峠下村の領内であり、七重村とも間に藤山村を挟むなど村境すら接しない別個の村であった。この位置的状況は七重村と飯田村が明治12年(1879年)に合併して七飯村となっても数十年変わらず、これら近在の村同じが全て合併し、峠下台場の区域が七飯村に包含されるのは実に明治35年(1902年)になってからのことである。必然「七飯台場」という呼称は運営当時のものではなく、埋文登載時の現代地名である「七飯町」が大きく影響していることがわかる。
- ^ 五稜星形の野堡が存在したとされ、略測図が遺るが昭和40~50年代の土取りにより喪失。
- ^ 第一次幕領期より存在したが、開国後の箱館表強化策に伴い大型の多角形要塞に改築された。
- ^ 開国後の箱館表強化策に伴い、台場機能は押付台場に統合された。
- ^ a b 開国後の箱館表強化策に伴い改修が建言されたがなされなかった。 幕府の蝦夷地直轄後の駐屯分担は盛岡藩。
- ^ 第一次幕領期は盛岡藩が管轄し、第二次幕領期は松前藩管轄となった。
- ^ 開国後の箱館表強化策に伴い改修が建言されたがなされなかった。 箱館戦争時には従前より構築されていた海岸側台場(天神森台場)に加え、街道沿いの段丘面に胸壁群、後背山上に砲台を設け、矢不来の戦いの陸戦において新政府軍に大きな被害を与えた。
- ^ 現存する平面図に洋式構造の砲座が認められることから、安政元年(1854年)の藩内台場西洋化の際に改修を受けたものと考えられる。
- ^ a b c d e f 藤原主馬により西洋式に改修。安政元年(1854年)に竣工。慶応4年(1868年)の正議隊クーデター時に廃止される。
- ^ 後述する箱館表整備計画中にある築島台場と同名であるが別。『北門史綱』巻之八などには慶応4年(1868年)に新築を命じたとあるが、安政2年(1855年)の日付のある同台場の図面も確認されており、より以前から存在した可能性がある。
- ^ 藤原主馬により西洋式に改修。安政元年(1854年)に竣工。
- ^ 現在の金森倉庫群周辺(函館市末広町)に計画された。
- ^ 沖之口番所の強化策として、現在の函館市大町(緑の島たもと)周辺に計画された。