完乗
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完乗(かんじょう)とは、交通機関が営業する、全ての路線に乗車・搭乗する完全乗車の略語[1][2]。 路線図・地図の塗り潰しになぞらえて、乗り潰しともいう[3]。
英語圏では"complete riding"と表現される。完乗とは多少ニュアンスが異なるが、ニューヨーク市地下鉄の最短時間全線乗車(早回り)は"Subway Challenge"(en)、ロンドン地下鉄の最短時間全線乗車は"Tube Challenge"(en)と呼ばれる。
日本語の書籍においては、他国の鉄道に関しても「完乗」という表現を用いることがある[4][5]。
日本の鉄道路線の完乗
[編集]完全乗車の類型
[編集]日本の鉄道路線の完全乗車を指し以下の様な事例がある。
- 日本国内の鉄道全路線の完全乗車[1]
- 旧日本国有鉄道・ JR路線の完全乗車
- 私鉄・公営鉄道の事業者毎の完全乗車[2]
- 一定の路線や地域を対象とする完全乗車[6]
- 長距離運行される列車の始発駅から終着駅までの完全乗車[7]
国鉄・JR線
[編集]1979年(昭和54年)に刊行された石野哲[8]の『時刻表名探偵』(日本交通公社)によれば、当時確認できた限りで最初の国鉄完乗者は、1959年(昭和34年)8月29日に富内線振内駅(当時の富内線終着駅)到着で達成した後藤宗隆である[9]。後藤は雑誌『旅』(日本交通公社)1980年(昭和55年)8月号に「国鉄完乗第一号」と題した手記を寄稿している[10]。後藤によると、当時同様な記録達成の目論見を抱いていた者は複数存在した模様であったが[11]、1950年代 - 1960年代の日本ではローカル線を中心に国鉄新路線の建設が未だ盛んであり、日本各地での散発的な新線開通で「乗り残し」をフォローすることが容易でなかった[12]。ただ、1959年(昭和34年)7月15日の紀勢本線全通から約8か月間新線の開業がないことを知り、この時期をチャンスとみて完乗にこぎつけたという[9][10]。当時慶應義塾大学生だった後藤は、NHK在職の知人から依頼を受け、完乗達成から2日後に帰京したその足で(生放送だった)総合テレビの『私の秘密』に「国鉄全線走破第一号」として出演している[10]。
石野によると、1962年(昭和37年)11月に2人目の完乗者[13]が現れ、その後1979年(昭和54年)3月までに確認できただけで、36人が完乗したという[9][14][15]。後藤のあと、「完乗者」がマスコミに取り上げられる機会がなかったわけではないが[16]、社会的に広く知られてはいなかった。石野、後藤などの文献に見られる範囲では、1970年代中期までは国鉄路線の全線乗車について「完乗」という略語表現は見受けられず、「全線走破」という表現の方がより一般的であった模様である。
国鉄完乗が脚光を浴びたのは、1978年(昭和53年)7月に出版された宮脇俊三の処女作である旅行記『時刻表2万キロ』がきっかけであった。『時刻表2万キロ』は刊行翌月に『サンデー毎日』8月13日号[17]に紹介されるなど、広くマスコミで取り上げられた[18]。『サンデー毎日』は同年11月26日号で「国鉄2万キロのロマン 全線走破 オレたちもやった」と題する他の国鉄完乗者を紹介する記事を掲載している[19]。『時刻表2万キロ』に触発されるかたちで国鉄は1980年(昭和55年)から、独自ルールに基づいて完乗者を認定・表彰する「いい旅チャレンジ20,000km」キャンペーンを開始し[20]、国鉄分割民営化を挟んだ1990年(平成2年)まで続けられた。このキャンペーンによる完乗(キャンペーンでは「完全踏破」と表現)達成者は10年間で1.500人以上にのぼり[21]、キャンペーン開始前と比較して大きく増加した。また、『時刻表名探偵』では「一人もいない」とされた女性の完乗者[9]も、キャンペーンで誕生している[21]。
2003年10月19日に横浜市の会社員杉原巨久(すぎはら たかひさ)が、日本の全路線の完乗と共に、JR・私鉄の全駅下車を成し遂げた[22]。
2005年11月3日には俳優の関口知宏が『列島縦断 鉄道乗りつくしの旅〜JR20000km全線走破〜』というテレビ番組でJR路線全線の完乗を果たした。
JRの場合、完乗を達成する者は男性が多く、女性の全線完乗は珍しいとされる[23]。
日本の鉄道路線の完乗者として知られる著名人
[編集]- 石田穣一[24] - 1977年1月22日、角館線松葉駅にて国鉄全線完乗達成。
- 宮脇俊三 - 1977年5月28日、足尾線にて国鉄全線完乗達成。
- 種村直樹 - 1979年8月30日、盛線盛駅にて国鉄全線完乗達成[25]。1983年3月27日、加悦鉄道加悦駅にて民鉄全線完乗達成[26]。自著により「完乗」の語を多用した。
- 横見浩彦 - 1987年1月2日、可部線三段峡駅にて国鉄全線完乗達成。
- 宮村一夫 - 1988年12月21日、ガーラ湯沢駅にてJR全線完乗達成。2009年10月17日、若桜鉄道若桜線にて私鉄全線完乗達成[27]。
- 関口知宏 - 2005年11月3日、根室駅にてJR全線完乗達成。
- 藻谷浩介[28] - 2007年[29]、国内全線完乗達成。
- 木村裕子 - 2013年7月27日、稚内駅にてJR全線完乗達成[30]。2015年11月29日、平成筑豊鉄道赤駅にて国内全線完乗達成[31]。
- 伊藤桃 - 2016年1月10日、久留里線上総亀山駅にてJR全線完乗達成[32]。
イタリアの鉄道路線の完乗
[編集]イタリアの鉄道路線ではイタリアFS(フェッロヴィーエ・デッロ・スタート)の全線1万5,000kmの完全乗車が知られている[33]。
イタリアの鉄道路線の完乗の場合、次のような難しい点があるとされている。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ a b “「最後は上信線」 鉄道ファン2人が「完乗」”. 読売新聞・東京朝刊・群馬西: p. 30. (2003年6月29日). "埼玉県の鉄道ファン二人が二十八日、上信電鉄上信線(高崎―下仁田)に乗車し、全国の鉄道すべてを“踏破”する「完全乗車(完乗)」を達成した。" - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ a b “30年かけ鉄道「完全乗車」 川崎の会社員、本出版”. 読売新聞・東京朝刊・神奈川: p. 30. (2006年5月24日). "鉄道ファンの間で全線に乗ることを「完全乗車」と呼ぶが、高橋さんは98年5月にJRの完全乗車を達成、昨年5月には全国の私鉄の「完乗」を果たした。" - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “[復興の街で]大震災から一年(6)追憶の旅は終わらない(連載)”. 読売新聞・東京朝刊: p. 35. (1996年1月17日). "息子が果たせなかったJR全線完乗を引き継いだ父がいる。... JR全線一万九千九百五十四・四キロ。乗りつぶしは一万七千九百四十・二キロで終わった。" - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “英国鉄道完乗への挑戦”. 成山堂書店. 2013年7月9日閲覧。
- ^ “交通新聞社新書021 イタリア完乗1万5000キロ ミラノ発・パスタの国の乗り鉄日記”. 全国官報販売協同組合. 2013年7月9日閲覧。
- ^ 鵜飼哲夫 (2009年9月22日). “「女流阿房列車」酒井順子さん著 珍道中5年…「鉄子」内田百閒を超えた?”. 読売新聞・東京朝刊: p. 21. "一番、精神的に疲れたのは2005年6月に挑戦した東京の地下鉄全線1日完乗の旅だったという。" - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “滝川—釧路 普通列車 国鉄色に”. 読売新聞・東京朝刊・北海道: p. 30. (2010年4月15日). "期間中は、全区間を乗車した利用者に「完乗証明書」を発行して、道内外から鉄道ファンを呼び込む考えだ。" - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ 当時、『交通公社の時刻表』編集部勤務で、自身もこの当時すでに民鉄も含めた日本の鉄道路線完乗を達成していた(『時刻表名探偵』の記述による)。
- ^ a b c d 石野哲『時刻表名探偵』日本交通公社、1979年、pp.254 - 256
- ^ a b c 『旅』1980年8月号、p116
- ^ 実際、後述の浜田綱生は大学生時代の1955年(昭和30年)から国鉄全線乗車の記録を取り始めており、後藤の乗車時期と重複する。
- ^ 1964年(昭和39年)3月に指宿枕崎線枕崎駅到達で9年がかりの国鉄全線完乗を達成した浜田綱生(はまだ つなお 当時日立製作所勤務)は、その年5月の根岸線開通、9月10日の橋場線(現・田沢湖線の一部)延長開通、9月23日の能登線全通を受けて、早速それらのフォロー乗車に回ることになった(浜田綱生『国鉄全線を走破して』「鉄道ピクトリアル」1964年11月号p67-69)。浜田は当時「現在、鉄道建設公団により、各地で沢山の新線が建設中或いは測量中であるから、当分は愉快なイタチゴッコを楽しめると思っている」と記している。石野の著作によれば、浜田は1959年(昭和34年)達成の後藤、1962年(昭和37年)達成の根本幸男に次ぐ3人目の完乗達成者である。
- ^ 根本幸男(1941-2019 当時中央大学在学、のち銚子信用金庫勤務。鉄道ピクトリアルなどに旅行記を寄稿)。1962年(昭和37年)11月7日、当時盲腸線であった宇和島線(現・予土線)江川崎駅で国鉄線完乗を達成。
- ^ 『時刻表名探偵』に先立ち、後述する『サンデー毎日』1978年(昭和53年)11月26日号掲載記事において、石野を国鉄全線完乗者(記事では「全線を走破」といった表現が使用されており、「完乗」という表記はない)の「まとめ役的な人」として紹介し、石野によって完乗者が31人いることが「すぐにわかった」と記されている。
- ^ 『時刻表名探偵』の増刷版では、3月に完乗した1人から1979年(昭和54年)4月7日に著者に届いた手紙で連絡があったとの追記があり、「1979年(昭和54年)3月までに完乗した」と確認できた人数は37人となる。
- ^ 石野哲は、後述の『時刻表2万キロ』刊行よりも前、『旅』1975年(昭和50年)2月号(p.98-101)に「ボクは日本の鉄道全線走破チャンピオン」、1977年(昭和52年)2月21日の日本経済新聞に「鉄道全線走破どこまでも」という文章をそれぞれ寄稿している。
- ^ 「国鉄全線2万キロを乗った男」『サンデー毎日』1978年(昭和53年)8月13日号、pp.28 - 29
- ^ 他の例として、サンケイ新聞1978年(昭和53年)10月15日付「日曜インタビュー 鉄道時刻表マニア宮脇俊三さん」等
- ^ 『サンデー毎日』1978年(昭和53年)11月26日号、pp.150 - 152
- ^ 宮脇は『私の途中下車人生』(講談社、1986年〈昭和61年〉)掲載のインタビューで「私の本が出てからは、それがきっかけになったのか、地図つきのパンフレットをつくって、『チャレンジ二万キロ』なんてのを盛んにやるようになりましたね」と発言し、国鉄からキャンペーンの認定委員となるよう依頼があったが固辞したことにも触れている。
- ^ a b 「『チャレンジ2万キロ』10年に幕 人間ドラマ終着駅」日本経済新聞1990年(平成2年)3月14日夕刊18頁
- ^ 杉原巨久『全駅下車見聞の旅―日本の鉄道全線9600駅』文芸社、2006年。
- ^ “主婦、JR全線「完乗」 “先輩”の夫と楽しみ達成”. 朝日新聞・大阪朝刊・神戸: p. 35. (2011年12月14日). "JR西日本によると、女性の全線完乗は珍しいという。" - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “メンバー紹介”. トラムで未来をつくる会. 2013年7月8日閲覧。
- ^ 種村直樹『きしゃ記者汽車 : 国鉄全線完乗まで』創隆社、1984年3月、250頁。全国書誌番号:84032107。
- ^ 種村直樹『種村直樹の汽車旅日誌』創隆社、1985年10月、145頁。全国書誌番号:87002557。
- ^ “宮村 一夫 | 鉄道の旅の楽しみ方~テッチャン先生が鉄道旅を語る~ | セカンドアカデミー ビジネスNEXT”. biz.second-academy.com. 2022年6月7日閲覧。
- ^ 中島鉄郎 (2011年4月16日). “(フロントランナー)日本政策投資銀行参事役・藻谷浩介さん”. 朝日新聞・朝刊・週末be: p. 1 - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ 藻谷浩介氏講演会パンフレット下関市川棚温泉交流センター 川棚の杜
- ^ JR全線完乗&5日間18きっぷで日本縦断達成しました!!木村裕子アメーバブログ 2013年7月27日
- ^ 「鉄ドル」、8年がかりの「完乗」旅客鉄道全線を制覇朝日新聞 2015年11月29日
- ^ JR全線完乗!!!伊藤桃アメーバブログ 2016年1月12日
- ^ a b c d e 安居弘明『イタリア完乗1万5000キロ』交通新聞社、2010年
外部リンク
[編集]- 乗りつぶしオンライン - 全国のJR、私鉄路線における完乗達成度を算出するシステム。