常安寺 (鳥羽市)
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常安寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 三重県鳥羽市鳥羽二丁目12-3 |
位置 | 北緯34度28分54.6秒 東経136度50分17.7秒 / 北緯34.481833度 東経136.838250度座標: 北緯34度28分54.6秒 東経136度50分17.7秒 / 北緯34.481833度 東経136.838250度 |
山号 | 玉龍山 |
宗旨 | 曹洞宗 |
宗派 | 永平寺派 |
寺格 | 僧録・触頭 |
本尊 | 釈迦如来坐像 |
創建年 | 慶長12年(1607年):常安寺に改称した年 |
開山 | 貫室善道 |
開基 | 九鬼嘉隆 |
正式名 | 玉龍山常安寺 |
別称 | 玉龍山大福寺(旧名) |
文化財 | 鳥羽市指定文化財5点 |
法人番号 | 4190005005170 |
常安寺(じょうあんじ)は、三重県鳥羽市にある、曹洞宗永平寺派の仏教寺院。山号は玉龍山。
鳥羽藩初期の藩主・九鬼家の菩提寺である。鳥羽志摩には曹洞宗の寺院が多いが、九鬼守隆がこの寺の伽藍を整備したことと、鳥羽藩後期の藩主・稲垣家が曹洞宗の金胎寺を菩提寺としたことが影響している[1]。
概要
[編集]鳥羽三山[注 1]の1つ樋ノ山の北麓に位置する。水軍を率いた九鬼嘉隆の子である九鬼守隆が父・嘉隆を開基に立て、父の帰依が深かった玉龍山大福寺を一大伽藍とした寺院である[2]。
本尊は釈迦如来坐像(像高94cm)[3]。曹洞宗66寺の僧禄寺、志摩国の仏教諸宗の触頭であった[4]。
境内外
[編集]本堂を中心に、薬師堂・准提堂・庚申堂・十王堂・地蔵堂などの堂と山門、鐘楼がある[3]。九鬼家の墓所は、山門から本堂の方向を見た時、左手にある山裾を進むとある[5]。境外には、鎮守として豊川吒枳尼尊天堂がある[3]。屋根瓦などには九鬼家の家紋である九曜星が入っている[6]。
歴史
[編集]創建年代は不詳である[7]が、本尊の釈迦如来坐像は室町時代の作である[3]。常安寺を名乗る前は玉龍山大福寺と称し、真言宗の寺であった[8]。文禄の役(文禄元年 - 文禄2年〔1592年 - 1593年〕)の折に九鬼嘉隆の香花院となる[4]。九鬼嘉隆は曹洞宗への信仰が篤く、三河国宝飯郡(現在の愛知県豊川市)の豊川妙厳寺から天堂伊尭(てんどう いぎょう)禅師を招き、大福寺を 曹洞宗に改めた[8]。慶長5年(1600年)、豊川妙厳寺七世悳善達和尚の法嗣・貫室禅道和尚を大福寺に招聘(しょうへい)し、同寺の末寺となった[4]。同年、九鬼守隆は両親の菩提を弔うため、大福寺の改築を開始した[2]。当時の本堂は現在の薬師堂だったとされる[7]。
慶長12年2月(グレゴリオ暦:1607年2月~3月)に七堂を持つ伽藍が落成、入仏式に際して玉龍山大福寺を東照山常安寺に改めた[2][4]。九鬼守隆は寺領100石と境内外の灯籠の油料20石を寺に寄進した[4]。こうして九鬼氏から保護を受け大きくなった常安寺であったが、寛永9年(1632年)に守隆が逝去し、翌・寛永10年(1633年)に家督争いが原因で九鬼氏が国替えとなると、寺領と油料は失われた[4]。しかしその後も九鬼氏の崇信は続き、丹波国綾部藩に転封となった九鬼隆季は、遺言により常安寺で葬儀を執り行った[4]。また、摂津国三田藩に移封となった九鬼久隆 は以前から移封先にあった梅林寺を心月院に改名し、常安寺から覚雄是的和尚を招き、心月院を宗廟とした[9]。
万治から元禄(1658年 - 1703年)にかけての間に山号が東照山から玉龍山に自然に戻る[2]。文政9年(1812年)に本堂を改築[3]。嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に発生した安政東海地震では、内陸にある常安寺まで津波が押し寄せたという記録がある[10]。慶応2年(1866年)には、稲垣氏3代の墓所が九鬼氏の廟所の隣に設けられた[3]。稲垣氏は歴代の墓を群馬県伊勢崎市にある天増寺に置いているが、幕末の激動期にあって同寺に移すことができず、鳥羽市にある菩提寺の金胎寺の境内が狭かったため、常安寺に墓を置くこと となった[11]。
明治時代には西南戦争勃発を受け、鳥羽港に寄港した明治天皇が常安寺の奥書院に宿泊した[12]。1950年(昭和25年)4月23日から5月7日にかけて開催された「パールカーニバル 鳥羽みなとまつり」[注 2]では、昭和天皇の採集された標本の展示を常安寺で行った[13]。
文化財
[編集]寺宝として、九鬼嘉隆が自害した際に用いたとされる短刀がある[12]。以下の5点が鳥羽市の文化財に指定されている[14]。
文化財名称 | 文化財種別 | 時代 | 解説 | |
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1 | 常安寺の涅槃図 | 有形文化財(絵画) | 安土桃山時代 | 文禄の役で九鬼嘉隆が李氏朝鮮から持ち帰ったものとされる。 |
2 | 常安寺薬師堂の鰐口 | 有形文化財(工芸品) | 江戸時代 | 九鬼守隆の寄進。伊勢・志摩両国の境界を示す史料の1つ。 |
3 | 常安寺境内の石燈籠 | 九鬼守隆の寄進。灯籠の高さは2.8m、幅は1m。 | ||
4 | 稲垣氏歴代の墓碑及び霊廟 | 史跡 | 霊廟は鳥羽市の金胎寺にある。幕末の稲垣氏の墓所。 | |
5 | 九鬼家の廟所 | 散在する墓を供養墓として1ヶ所に集めたもの。 |
交通
[編集]主な末寺
[編集]山号 | 寺号 | 所在地 |
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玉壷山 | 桃源寺 | 鳥羽市桃取町[16] |
巌峯山 | 池渓寺 | 志摩市磯部町恵利原[17] |
玉泉庵 | 志摩市磯部町迫間[18] | |
慈眼山 | 福寿寺 | 志摩市磯部町五知[18] |
玉樟山 | 隣江寺 | 志摩市磯部町坂崎[19] |
大日山 | 栖雲寺 | 志摩市磯部町三ヶ所[20] |
東照山 | 見宗寺 | 志摩市阿児町甲賀[21] |
福寿山 | 妙音寺 | |
龕流山 | 福満寺 | |
玉光山 | 徳林寺 | 志摩市浜島町南張[22] |
無量山 | 江月庵 | 志摩市浜島町桧山路[23] |
仏寿山 | 来迎寺 | 志摩市志摩町片田[24] |
玉峰山 | 金剛院 | |
慈眼山 | 如意庵 |
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 鳥羽市史編さん室(1991):下巻999ページ
- ^ a b c d 鳥羽市史編さん室(1991):上巻332ページ
- ^ a b c d e f 鳥羽市史編さん室(1991):下巻1010ページ
- ^ a b c d e f g 鳥羽市史編さん室(1991):上巻333ページ
- ^ 近畿日本ツーリスト出版センター(2005):101ページ
- ^ 鳥羽商工会議所"常安寺 - 鳥羽商工会議所"(2011年5月3日閲覧。)
- ^ a b 鳥羽市史編さん室(1991):下巻1008ページ
- ^ a b 九鬼神伝保存顕彰会"熊野水軍 - 鳥羽の常安寺"(2011年5月1日閲覧。)
- ^ NHK神戸放送局(2007)"NHK神戸放送局|新・兵庫史を歩く 藩主九鬼氏の残影〜三田市〜"(2011年5月3日閲覧。)
- ^ 羽鳥(2005):58ページ
- ^ 鳥羽市史編さん室(1991):下巻1135ページ
- ^ a b 社団法人伊勢志摩観光コンベンション機構"常安寺|観光スポット検索|美し国伊勢志摩"(2011年5月3日閲覧。)
- ^ 伊勢志摩国立公園指定50周年記念事業実行委員会 編(1997):47ページ
- ^ 鳥羽市史編さん室(1991):下巻1110 - 1136ページ
- ^ 鳥羽市観光協会"常安寺(鳥羽市観光協会)"(2011年5月3日閲覧。)
- ^ “玉壷山桃源寺”. 鳥羽デジタルアーカイブス. 鳥羽市観光課. 2024年3月31日閲覧。
- ^ 磯部郷土史刊行会 編 1963, p. 173.
- ^ a b 磯部郷土史刊行会 編 1963, p. 170.
- ^ 磯部郷土史刊行会 編 1963, p. 172.
- ^ 磯部郷土史刊行会 編 1963, p. 174.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編 1983, p. 472.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編 1983, p. 814.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編 1983, p. 917.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編 1983, p. 321.
参考文献
[編集]- 伊勢志摩国立公園指定50周年記念事業実行委員会 編『伊勢志摩国立公園50年史』伊勢志摩国立公園指定50周年記念事業実行委員会、平成9年3月24日、205pp.
- 磯部郷土史刊行会 編『磯部郷土史』磯部郷土史刊行会、昭和38年5月10日、506p.
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 24三重県』角川書店、昭和58年6月8日、1643p.
- 『'05-'06 伊勢 鳥羽 志摩 松阪』ツーリスト情報版255、近畿日本ツーリスト出版センター、2005年3月31日、167pp. ISBN 4-87638-755-9
- 鳥羽市史編さん室 編『鳥羽市史 上巻』鳥羽市役所、平成3年3月25日、1126pp.
- 鳥羽市史編さん室 編『鳥羽市史 下巻』鳥羽市役所、平成3年3月25日、1347pp.
- 羽鳥徳太郎(2005)"伊勢湾岸市街地における安政東海津波(1854)の浸水状況"歴史地震(歴史地震研究会).20:57-64.
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 常安寺(鳥羽市公式サイト内)