汾州 (唐)
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汾州(ふんしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から明代にかけて、現在の山西省中部に設置された。
概要
[編集]434年(延和3年)、北魏により吐京鎮が立てられた。488年(太和12年)、吐京鎮は汾州と改められた。その州治は蒲子城に置かれた。汾州は西河郡・吐京郡・五城郡・定陽郡の4郡10県を管轄した[1]。
583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、介州の属郡は廃止された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、介州は西河郡と改称された[2]。617年(義寧元年)、西河郡のうち介休・平遥の2県が分離されて介休郡が置かれた。
618年(武徳元年)、唐により介休郡は介州と改められ、西河郡は浩州と改められた。620年(武徳3年)、浩州は汾州と改称された。627年(貞観元年)、介州が廃止され、介休・平遥の2県は汾州に併合された。742年(天宝元年)、汾州は西河郡と改称された。758年(乾元元年)、西河郡は汾州の称にもどされた。汾州は河東道に属し、西河・孝義・介休・平遥・霊石の5県を管轄した[3]。
宋のとき、汾州は河東路に属し、西河・介休・孝義・平遥・霊石の5県を管轄した[4]。
金のとき、汾州は河東北路に属し、西河・介休・孝義・平遥・霊石・温泉の6県と郭柵・洪山の2鎮を管轄した[5]。
元のとき、汾州は冀寧路に属し、西河・介休・孝義・平遥の4県を管轄した[6]。
1376年(洪武9年)、明により汾州は山西等処承宣布政使司に直属した。1595年(万暦23年)、汾州は汾州府に昇格した。汾州府は山西省に属し、直属の汾陽・孝義・平遥・介休・石楼・臨の6県と永寧州に属する寧郷県、合わせて1州7県を管轄した[7]。
清のとき、汾州府は山西省に属し、汾陽・孝義・平遥・介休・石楼・臨・寧郷・永寧州の1州7県を管轄した[8]。