牧朴真
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牧 朴真(まき なおまさ、1854年4月26日(嘉永7年3月29日)- 1934年(昭和9年)4月29日)は、日本の官僚、政治家、実業家。県知事、衆議院議員。幼名・銑太郎。
経歴
[編集]肥前国南高来郡島原村新建(現:長崎県島原市)で、島原藩士・牧真成の長男として生まれる。
1875年1月、長崎県等外一等出仕となる。同年2月、福岡県に転じ十五等出仕・地租改正掛に就任。以後、史生、権少属、兼警部心得、少属などを歴任。
1880年4月、太政官に転じ四等属・内務部勤務となる。以後、審理局御用掛、参事院書記生、同議官補、法制局参事官、枢密院書記官などを歴任し、1889年3月に退官した。その後、総武鉄道株式会社の創立委員長となり、1890年1月、会社設立と共に社長に就任し1892年11月まで在任した。
1890年7月、第1回衆議院議員総選挙に長崎県第三区から出馬し、志波三九郎との接戦を制し当選。大成会に属した。1892年2月、第2回総選挙 でも志波と大接戦となり当選。中央交渉部に属し、衆議院議員を二期務めた。1894年3月の第3回、第4回総選挙では志波に敗れて落選した。
1879年5月、陸軍省雇員となり、台湾総督府設置に伴い民政局内務部長心得に就任。以後、民政局逓信部長心得、台中県知事などを歴任。
1896年8月、青森県知事に転じた。自由党系県会議員と対立し、1897年10月、県会で知事不信任案が可決され、県会は解散となった。同年11月、愛媛県知事に異動したが、二ヵ月後の1898年1月、内務省警保局長に就任し監獄局長心得を兼務した。警察監獄学校の設立に尽力した。1898年7月に警保局長を退任。
1898年11月、農商務省水産局長に就任し、さらに農務局長を務めた。1907年12月に退官。その後、大日本水産会理事長、日本缶詰協会長、大日本水産工芸協会長、大日本水産会副総裁などを歴任し、水産業の振興に尽力した。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1896年(明治29年)3月31日 - 勲五等瑞宝章[2]
- 1897年(明治30年)6月26日 - 勲四等瑞宝章[3]
- 1901年(明治34年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[4]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章[5]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 高橋雄豺「牧朴真」『明治警察史研究』第4巻・後編、高橋雄豺、令文社、1972年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
公職 | ||
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先代 児玉利国 台湾民政支部長 | 台中県知事 1896年 | 次代 村上義雄 |
先代 (新設) | 台湾総督府内務部長 1895年 - 1896年 内務部長心得 1895年 | 次代 古荘嘉門 |
その他の役職 | ||
先代 村田保 会長 | 大日本水産会理事長 1909年 - 1928年 | 次代 伊谷以知二郎 |
先代 (新設) | 総武鉄道社長 1890年 - 1892年 | 次代 坂本則美 |