竹槍三百万本論

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竹槍三百万本論(たけやりさんびゃくまんぼんろん)とは、日本陸軍軍人である荒木貞夫1877 - 1966)が提唱した、竹槍300万本をもって日本防衛を行うという旨の主張である。竹槍の本数については資料により異同がある。

概要[編集]

荒木は「竹槍将軍」とも呼ばれ、竹槍に絡めた発言を頻繁に行っている。中でも1933年(昭和8年)10月、当時陸軍大臣を務めていた荒木が外国人記者団とのインタビューの際に語ったとされる「竹槍三百万本あれば列強恐るるに足らず」という発言はよく知られている。[要出典]

竹槍に関する荒木の発言[編集]

1933年昭和8年)3月7日、英国大使館で行われたジョージ・バーナード・ショー1856 - 1950)との対談において、近代兵器の話題の中で竹槍を話題に出している[1]

シ 細菌散布の戰術は實に悲慘で人道上甚だ遺憾だ
陸 毒ガスも人を殺すのをやめて數年間眠るのを用ひることにしたらよい、眠らせられたものはその間天國の樣な夢を見て覺めた時には戰爭が終つてゐるといふ樣なのは理想的だ
シ 人を殺さずに戰爭するには科學兵器をうんと發達させて機械と機械だけで戰爭すれば人を殺さないでよい
陸 それは新兵器の製作で各國が競爭する結果國家の財政を危くし負擔を重くして國民を苦しめるから、いつそ昔にかへつて竹槍戰術が一番よいと思ふ — バーナード・ショー(シ)、荒木貞夫(陸)、『東京朝日新聞』東京朝日新聞社、昭和8年3月8日、11面[1]

同年7月22日、高崎留守隊の視察及び前橋市で行われる国防議会発会式に向かった荒木が、高崎行きの列車車中で語った時局談の中に、国防予算に関する下記の一節があり、竹槍について300万本という具体的な数字を用いて語っている[2]

海軍大臣に會つたことから大分國防豫算がやかましくなつてゐるやうだ國防許りでなく凡て國策は内外諸般の情勢を考慮に入れて决定せねばならぬもので豫算の多寡は問題でない、海軍が力瘤を入れてゐる第二次補充計畫は未だ計數が整はないので金額の點には及ばず國防に立脚した國策について話合つたのであるが國防財政上どうしても必要の金も出せないと云ふなら陸軍は竹槍を三百万本も作つてくれるならそれでもよいと思つてゐる位である — 荒木貞夫、『讀賣新聞』讀賣新聞社、昭和8年7月23日、1面[2]

同年10月22日福井県で行われる陸軍特別大演習の陪観に向かった荒木が列車車中で語った時局談の中にも、竹槍に関する下記の一節がある[3]

豫算については國民が一致協力してくれさへすれば少なくなつても良い、お互に財布の底をたゝき合つてそれでも出來ないなら何んといつても仕方はないが最後は竹槍三百萬本でも戰つて見せる、決して皇土をじゆうりんさせるやうなことはしない — 荒木貞夫、『東京朝日新聞』東京朝日新聞社、昭和8年10月23日、2面[3]

1934年(昭和9年)1月1日に荒木が出版した『非常時の認識と青年の覚悟』において、「先づ人の和を図れ」の章で竹槍に関して下記の記述をしている[4]

軍事費が餘計に掛つていかぬと言ふならば、もう要塞を全部平らにして兵器を全部仕舞ひ込んで此の九千萬國民が一致して、人と人との和、皇室と日本道とを戴いてやつたならば宜い。さうすれば國防の爲に竹槍三百萬本を揃へて置きさへすれば、それでもう澤山だと私は思ひます。竹槍三百萬本位の費用は幾らの費用にもならぬのである。每年々々甲州から新しい竹を切つて槍を造つた所で三百萬圓は要らないのである。その軍事費を以て生產費、敎育費に充てれば洵に結構である。 — 荒木貞夫、『非常時の認識と靑年の覺悟』文明社、昭和9年1月1日、39頁[4]

1935年(昭和10年)5月13日に荒木私邸で行われた、荒木と石橋湛山(1884-1973)による対談において、竹槍に関して下記のように発言している[5]

荒木 私は會議に於て高橋さんに言つた。國策がそうと決れば竹槍三百萬本を持ても國防の任に當ります。私は出鱈目を言つて居るのぢやない。それだけ財政がお困りで其立直しが急であるならば全部返上致します。その代り國防擔任に飽迄屈しないといふだけの思想的の力を國民に有つて貰はなければならぬ。どんなに苦しんでもお辭儀はしない。最後迄踏止まるといふ覺悟をして貰はなければならぬ。そして戰さの事は吾々に委かして貰はなければならぬ。大阪の例をとつては大阪の人に濟まぬが、例へば大阪位が燒拂はれてもヘコたれぬといふ決心があれば竹槍で立派に日本を守つて見せます。然し國民がそれが厭やだと云へば情勢に應じては全財政を擧げても軍備をやつて貰はなければならぬ場合がある、斯う言つたのです。 — 荒木貞夫、『東洋經濟新報』東洋經濟新報社、昭和10年6月1日、30-31頁[5]

荒木の発言に対する反応[編集]

荒木の一連の発言に対する解釈はさまざまであるが、戦後においては当時の日本陸軍の非科学性と精神論を象徴する発言として取り上げられることが多い[6]。一方で、菅原裕による、この竹槍発言は悪質なデマであり荒木は実際には科学兵器を重視していた、とする反論もある[7]

また、石橋湛山は竹槍三百万本論について、荒木は「只だ万已むを得ざれば、竹槍でも戦争は出来る。其の場合には損害は勿論甚だ大きいが、之れを忍ぶ意力が国民にありさえすれば、戦争にはそれでも勝てる」という意見であったのに対し、世間からは「竹槍300万本さえあれば、他の武器は無用」という主張だと誤解を受けていると評している[8]。石橋によれば、竹槍三百万本論に関する荒木の発言は、満州事変の頃に荒木が参加した参謀本部での戦術研究において、英米等の敵軍が本土上陸を行う段階となった場合に本土全域でゲリラ戦を展開すれば敵軍に抵抗できる、という結論に基づく発言であり、少なくとも戦闘機などの近代兵器が未発達だった当時の状況では一定の根拠に基づくものであったという[8][9]。また、無制限に軍備の拡張をすれば国力の消耗につながり国防を全うすることができなくなる以上は、国を挙げて敵の侵入を撃退しようという国民の決意が戦勝の最大の条件となるという意味もあったという[8][9]

太平洋戦争における竹槍の使用[編集]

太平洋戦争においては、マレー作戦で拳銃隊と共に竹槍部隊が上陸するなど、僅かではあるが竹槍を武器の1つとして利用することもあった[10]

太平洋戦争後半、戦局の悪化により本土決戦が叫ばれ、1945年(昭和20年)3月24日、「国民義勇隊組織に関する件」の発表に伴い国民義勇隊が組織されることとなった[11]。ただし、国民義勇隊では竹槍による訓練等は行わないものとしていた[12]

その翌月4月25日大本営陸軍部により、全国民に対する本土決戦時の手引書である『国民抗戦必携』と題した冊子が発行された[13]。『国民抗戦必携』の内容は1945年(昭和20年)6月10日から6月13日にかけて『朝日新聞』にて紹介されており、その中の「白兵戦闘と格闘」の章において以下の解説がされている[14]

銃、劍はもちろん刀、槍、竹槍から鎌、ナタ、玄能、出刃庖丁、鳶口に至るまでこれを白兵戰鬪兵器として用ひる、刀や槍を用ふる場合は斬擊や橫拂ひよりも背の高い敵兵の腹部目がけてぐさりと突き刺した方が效果がある、ナタ、玄能、出刃庖丁、鳶口、鎌等を用ひるときは後から奇襲すると最も效果がある、正面から立ち向つた場合は半身に構へて、敵の突き出す劍を拂ひ、瞬間胸元に飛びこんで刺殺する、なほ鎌の柄は三尺位が手頃である — 大本營陸軍部刊行『國民抗戰必携』、『朝日新聞』朝日新聞東京本社、昭和20年6月11日、2面[14]

また、その翌月5月24日内閣総理大臣である鈴木貫太郎(1868-1948)が、航空機製造会社の代表者百数十人を首相官邸に招待して、航空機増産激励会を催し、その挨拶において竹槍について下記の発言をしている[15]

しかもなほ直面せる戰爭の實態はあくまでも旺盛なる士氣と近代科學の粹を集めた立體作戰に終始し、決して竹槍をもつて戰ひ得るごとき戰爭觀であつてはならぬのであつて、一に航空機を核心として勝敗の歸趨を決するの堅い覺悟をもたねばならぬ — 鈴木首相、『朝日新聞』朝日新聞東京本社、昭和20年5月25日、1面[15]

これは航空機の関係業者を集めた会合なので、特にその者達を激励するための発言であるが、航空機等の近代兵器の必要性を説くだけでなく、不毛な竹槍訓練を批判する意図も含められていると考えられる[16]

結果として竹槍戦術は正式には採用されないまま、1945年(昭和20年)8月14日、日本はポツダム宣言を受諾したため、本土決戦に至る前に終戦を迎えた。

海外の類例[編集]

第二次世界大戦中のイギリスでは物資の不足から、後方部隊であるホーム・ガードの武装として鉄パイプの一端に銃剣を溶接した「ホーム・ガード・パイク」が支給された。

脚注[編集]

  1. ^ a b 「珍問答、シヨウ翁と陸相 妙に気が合つて弁舌比べ二時間 爺さん別れ際に『支那兵が攻めて来るまで話してゐたいんだが』」『朝日新聞』第16835号、1933年3月8日、11面。
  2. ^ a b 「金の代りに竹槍三百万本でもよい 陸相の時局談」『読売新聞』第20272号、1933年7月23日、1面。
  3. ^ a b 「国防は単に兵備のみでない 荒木陸相語る」『朝日新聞』第17062号、1933年10月23日、2面。
  4. ^ a b 荒木貞夫『非常時の認識と青年の覚悟』文明社、1934年1月1日、39頁。NDLJP:1033698/26 
  5. ^ a b 荒木大将、石橋湛山「荒木大将国策縦談」『東洋経済新報』第1655号、東洋経済新報社、1935年6月1日、29-37頁。 
  6. ^ 「昭和検証【6】国際関係(戦前) 視野狭い“外交音痴”」『読売新聞』第40445号、1989年1月14日、15面。
  7. ^ 菅原は東京裁判における荒木の弁護人。菅原裕『東京裁判の正体』(復刻版)国際倫理調査会、2002年8月15日、258-259頁。ISBN 9784336044501 。他に「日本国憲法失効論」。
  8. ^ a b c 石橋湛山「邀撃戦と竹槍三百万本論(東京だより)」『大陸東洋経済』第16号、東洋経済新報社、1944年7月15日、20頁。 
  9. ^ a b 石橋湛山「時言 私の考える日本防衛論」『東洋経済新報』第3435号、東洋経済新報社、1968年10月5日、24-25頁。 
  10. ^ 「マレー戦線 竹槍をしごいて突撃 飛行場占領・建築部隊の奮戦」『朝日新聞』第20121号、1942年4月1日、2面。
  11. ^ 「挙げて国民義勇隊へ 措置決定 いざ鎌倉、武装決起 防衛、生産の一体的強化」『読売新聞』第24507号、1945年3月25日、1面。
  12. ^ 「国民義勇隊の実体 平生は職域挺身 竹槍訓練などはやらぬ」『読売新聞』第23148号、1945年3月27日、2面。
  13. ^ 「国民抗戦必携 一億特攻 本土決戦の手引き」『読売新聞』第2480号、1945年6月10日、2面。
  14. ^ a b 「国民抗戦必携② 鉈、蔦口も白兵々器」『朝日新聞』第21283号、1945年6月11日、2面。
  15. ^ a b 「航空機の増産へ 死守せよ職域 首相、航空機会社代表激励」『朝日新聞』第21266号、1945年5月25日、1面。
  16. ^ 「社論 竹槍戦争観の否定 首相の一言千鈞の重みあり」『東洋経済新報』第2176号、東洋経済新報社、1945年6月16日、1-2頁。