西條文喜

ウィキペディアから無料の百科事典

さいじょう ふみき
西條 文喜
本名 伊奈 文喜 (さいじょう ふみき)
別名義 鶴巻 次郎 (つるまき じろう)
生年月日 (1921-10-23) 1921年10月23日
没年月日 (1988-06-09) 1988年6月9日(66歳没)
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市本郷区
死没地 日本の旗 日本 東京都世田谷区用賀
職業 映画監督脚本家作詞家詩人
ジャンル 劇場用映画テレビ映画
活動期間 1940年 - 1988年
配偶者
著名な家族 二女
伯父 西條八十
叔父 伊奈精一
テンプレートを表示

西條 文喜(さいじょう ふみき、1921年10月23日 - 1988年6月9日)は、日本の映画監督脚本家作詞家詩人である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。本名は伊奈 文喜(いな ふみき)[1]、別名は鶴巻 次郎(つるまき じろう)[12]。詩人としては本名を名乗った。

人物・来歴

[編集]

1921年(大正10年)10月23日、東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区本郷)に生まれる[1]。伯父に作詞家の西條八十(1892年 – 1970年)、叔父に映画監督の伊奈精一(1898年 – 1962年)がいる[1]

旧制・駒込中学校(現在の駒込高等学校)に進学、叔父・伊奈精一の影響により幼少より映画に親しみ、1940年(昭和15年)3月、同校を卒業するとともに、叔父の紹介を得て、同年4月、新興キネマに入社する[1]。叔父の所属する東京撮影所(現在の東映東京撮影所)演出部に配属され[1]、同年9月15日に公開された叔父の監督作『真人間』ではサード助監督を務めた[5]。伯父・西條八十の作詞家としての門下生でもあり[1]、1941年(昭和16年)8月1日に伯父・八十が発行した詩誌『蝋人形』第12巻第8号には、西條の文が伊奈 文喜の名で掲載されている。第二次世界大戦が開始され、1942年(昭和17年)には召集令状を受けて中支派遣軍に入隊した[1]。新興キネマは、同年1月27日、戦時統合によって日活の製作部門および大都映画と合併して大映となった。

1945年(昭和20年)8月15日に第二次世界大戦は終了したが、西條が復員したのは1947年(昭和22年)であった[1]。戦後は戦時中にひきつづき大映に復帰、戦時統合前は日活多摩川撮影所であった大映東京撮影所(現在の角川大映撮影所)に所属して助監督を務めた[1]。おもに田中重雄に師事したが、1948年(昭和23年)11月22日に公開された『情熱の人魚』(監督田口哲)では、山口淑子が歌う挿入歌『水の精と女人』(作曲斎藤一郎)の作詞を手がけている[5]。1952年(昭和27年)12月10日に結婚した[1]成瀬巳喜男やその門下の斎村和彦のチーフ助監督を務めた後、1957年(昭和32年)に監督に昇進、藤田佳子主演の『愛すべき罪』を初監督、同作は同年7月28日に公開された[1][6][7][8][9]。つづいて根上淳を主演に昇進第二作『大都会の午前3時』を監督、翌1958年(昭和32年)1月22日に公開されたが、以降、同社での劇場用映画の監督機会はなかった[1][5][6][7][8][9]。在籍中は、筆名・作品名は不明であるが田中重雄の監督作の脚本執筆、『羅生門』(監督黒澤明、1950年)や『幻の馬』(監督島耕二、1955年)の海外版の製作実務を行ったり、日本映画監督新人協会の大阪支部長および同事務局を務めた[1]。1964年(昭和39年)には、井上昭とともに、大映テレビ室が製作する連続テレビ映画『列外一名』全13回に取り組み、全話完成するも、放映が見送られている[10]

1965年(昭和40年)には、鶴巻 次郎の名で成人映画甘い陶酔』を監督、新東宝映画が配給して同年4月に公開されている[6][9][12]。以降、独立プロ系の成人映画、いわゆる「ピンク映画」を手がける際には同名を名乗り、翌5月には中映プロダクションで『鎖の女』および『妾ごろし』の2作を監督、公開されている[6][8][9]渡辺護によれば、同年6月に公開された渡辺の監督デビュー作『あばずれ』(脚本吉田義昭)は、もともと西條が監督する予定で企画されていたものだという[13]。同年8月25日に公開された『女の林』は、ポスター等には監督名が「山崎福二郎」と記載されているが、『映画年鑑 1967』には「鶴巻二郎」と書かれている[14]。同年中に、宮西四郎の製作した『荊ある愛撫』および『紅い肌影』、『女の林』と同じ国際ビデオの製作した『不良女学生』を鶴巻の名で監督した[6][8][9][14]。この時点では、西條は大映に籍があり、同年9月12日に放映された大映テレビ室製作による連続テレビ映画『せんせい』第23話は、西條が監督している[10]

1966年(昭和41年)には、台湾の瑞昌と沖縄との合作映画『太陽は俺のものだ』(中国語題『我的太陽』)を製作・監督[1]、同年、台湾で公開されている[15]。鶴巻の名でも、『やわ肌ざんげ』、『女のふくらみ』、『地獄の愛撫』の3作を監督した[6][8][9][14]。1976年(昭和51年)12月24日に発行された『日本映画監督全集』によれば、西條が大映を退社したのは、1967年(昭和42年)であるという[1]。満45歳のころであった。同年6月24日に公開された『地獄の愛撫』(製作光映画、配給関東ムービー配給)を最後に、劇場用映画の世界から離れた[6][8][9]。テレビ映画の作品歴も見当たらない[10]

その後は、作詞等の活動を続けたとされ[1]、1986年(昭和61年)3月には、私家版として『童謡集 王さまと驢馬 シナリオ竹靑』を上梓している[4]。1988年(昭和63年)6月9日、肺がんのため入院先の東京都世田谷区用賀関東中央病院で死去した[2][3]。満66歳没。同年秋までの情報が掲載されている『映画年鑑 1989』には、西條の訃報と、存命者としての世田谷区弦巻の住所の両方が掲載された[3]

フィルモグラフィ

[編集]

特筆以外のクレジットはすべて「監督」である[1][5][6][7][8][9][10][14]東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[5]

西條文喜

[編集]

鶴巻次郎

[編集]

ビブリオグラフィ

[編集]

国立国会図書館蔵書による西條の創作・座談会・エッセイ等の一覧[4]

ディスコグラフィ

[編集]

日本音楽著作権協会の作品データベース検索結果を参考にした一覧である[11]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r キネ旬[1976], p.179.
  2. ^ a b キネ旬[1988], p.155.
  3. ^ a b c 年鑑[1988], p.354, 401.
  4. ^ a b c 国立国会図書館サーチ検索結果、国立国会図書館、2014年8月25日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 西條文喜東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年8月25日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k 西条文喜鶴巻次郎、日本映画情報システム、文化庁、2014年8月25日閲覧。
  7. ^ a b c d 西条文喜日本映画製作者連盟、2014年8月25日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h 西条文喜鶴巻次郎KINENOTE, 2014年8月25日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m 西條文喜西絛文喜西条文喜鶴巻次郎日本映画データベース、2014年8月25日閲覧。
  10. ^ a b c d e 西条文喜テレビドラマデータベース、2014年8月25日閲覧。
  11. ^ a b 作品データベース検索サービス検索結果、日本音楽著作権協会、2014年8月25日閲覧。
  12. ^ a b 渡辺護さんによると、鶴巻次郎は西條文喜井川耕一郎twitter, 2013年2月15日付、2014年8月25日閲覧。
  13. ^ 渡辺護監督が亡くなりました/その監督人生をふりかえる、井川耕一郎、2014年1月3日付、2014年8月25日閲覧。
  14. ^ a b c d e f g h i j 年鑑[1967], p.325-333.
  15. ^ 黃[2008], p.239.

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
画像外部リンク
鎖の女
1965年5月公開
中映プロダクション
女の林
1965年8月25日公開
国際ビデオ新東宝映画
女のふくらみ
1966年7月公開
メトロ芸能社関東映配