高橋武夫

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高橋 武夫
名前
カタカナ タカハシ タケオ
ラテン文字 TAKAHASHI Takeo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1947-05-13) 1947年5月13日(76歳)
出身地 東京都品川区
身長 174cm
体重 67kg
選手情報
ポジション FW
代表歴
1966-1971[1] 日本の旗 日本 14 (4)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

高橋 武夫(たかはし たけお、旧姓:木村1947年5月13日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはFW

略歴[編集]

現役時代[編集]

東京都品川区で生まれ[2]、小学4年生の時に埼玉県蕨市に引越す。少年時代から運動能力が高く中学時代から本格的にサッカーを始めると、この当時からフォワードを務めていた。高校は埼玉県立川口高等学校へ進学し、2年次の高校選手権予選では決勝へ進出したが、浦和勢の牙城を崩して全国大会へ出場する事はかなわなかった。

全国的には無名の存在だったが3年次にAFCユース選手権の選考を兼ねた高校地域選抜大会に埼玉県選抜の選手として参加。ここでのプレーが日本ユース代表監督の平木隆三に認められ、翌1965年のアジアユース代表に選ばれた。

卒業後、鍋・やかん等のアルミ器物を製造している東新プレス工業[3]に入社[2] し、東新の親会社である古河電気工業サッカー部に入部。この当時の古河は経営状態が悪く、長年新人選手の獲得を控えていた事もあって子会社へ入社させるという苦肉の策であった[2]

古河では加入早々からセンターフォワードに定着。スピードを生かしたドリブル突破と身体能力を生かしたヘディングで得点を重ねた。同年12月、タイバンコクで行われた第5回アジア競技大会日本代表デビューを果たし、3位決定戦のシンガポール戦で代表初得点を決めた[1]

1967年、2年目の20歳の時にリーグ戦で15得点を挙げ、釜本邦茂を1点差で抑えて得点王に輝いた[4]。なお、この記録は日本サッカーリーグ歴代最年少であった。日本代表にも引き続き招集されメキシコ五輪代表候補に名を連ねていたが、最終メンバーからは上久雄と共に落選した。

1972年、試合中に右膝半月板を損傷。症状が悪化したため手術を受けるも結果も思わしくなく医師から完全復活は難しいとの判断が下された。右膝の怪我の影響により、それまでの身体能力を生かしたプレーが影を潜めるようになると、引退後の生活も考えるようになる[5]

1974年、古河電工を退部して東京農業大学に進学。一方で同大学のサッカー部へ入部して選手兼コーチを務め選手生活を続けることになった。同サッカー部では2年目の1975年には関東大学リーグ1部昇格へと導き、1977年の第57回天皇杯全日本サッカー選手権大会において、準々決勝で古巣である古河電工に2-3で敗れたものの、日本リーグ1部のトヨタ自工新日鐵といった格上を下して学生唯一のベスト8に食い込んだ。

1979年、大学を卒業後は川淵三郎の勧め[5] もあって東芝に入社し同社のサッカー部へ入部。この時期に結婚をして妻の姓の高橋へ改姓した。この年に日本リーグ2部優勝を果たすものの、1部昇格は逃した。その後35歳まで現役を続け1982年に現役を引退。引退後はサッカーから離れ社業に専念した。

監督時代[編集]

1987年、東芝サッカー部の監督に就任。2年目の1989年 日本リーグ2部で優勝し、悲願であった1部昇格を果たす。

1995年、東芝サッカー部がJリーグ入りを目指しプロ化をすることが決まり、翌1996年北海道札幌市に移転したことに伴いチーム名をコンサドーレ札幌に改称した。会社側からは会社に戻るかプロに専念するか1年間の猶予が与えられていた[5] が、東芝を退社して同クラブの初代監督を務める。翌年もゼネラルマネージャーとしてチームのJリーグ昇格を後押しした。

2003年、母校の東京農業大学の監督に就任、2年目に関東大学リーグ1部昇格へと導いた。現在は監督を退き一般企業に勤務している。

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1966 古河 JSL 10 6 -
1967 13 15 - - 13 15
1968 12 6 - - 12 6
1969 14 6 -
1970 13 6 -
1971 14 3 -
1972 JSL1部 8 3 -
1973 9 2
1979 東芝 JSL2部 -
1980
1981 -
1982
通算 日本 JSL1部 93 47
日本 JSL2部
総通算

代表歴[編集]

  • 日本代表初出場:1966年12月17日 対タイ戦(バンコク)
  • 日本代表初得点:1966年12月19日 対シンガポール戦(バンコク)

出場大会など[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 14試合 4得点(1966-1970)[1]


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1966 2 1 0 0 2 1
1967 1 0 6 1 7 1
1968 2 0 7 2 9 2
1969 1 0 13 1 14 1
1970 8 3 12 2 20 5
1971 0 0 4 0 4 0
通算 14 4 42 6 56 10

得点数[編集]

# 年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1966年12月19日 タイバンコク シンガポールの旗 シンガポール 2-0 勝利 アジア競技大会
2 1970年7月31日 マレーシアクアラルンプール 香港の旗 香港 1-2 敗戦 ムルデカ大会
3 1970年8月2日 マレーシア、クアラルンプール 大韓民国の旗 韓国 1-1 引分 ムルデカ大会
4 1970年12月17日 タイ、バンコク インドの旗 インド 1-0 勝利 アジア競技大会

監督成績[編集]

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 JSL杯 天皇杯
1987 JSL2部・東 東芝 3位 14 20 8 4 2 準々決勝 準々決勝
JSL2部・上位 14 18 8 2 4
1988-89 JSL2部・東 東芝 優勝 14 23 9 5 0 準優勝 1回戦
JSL2部・上位 14 21 8 5 1
1989-90 JSL1部 東芝 9位 22 20 4 8 10 準々決勝 準々決勝
1990-91 JSL1部 東芝 4位 22 32 8 8 6 2回戦 準々決勝
1991-92 JSL1部 東芝 4位 22 30 7 9 6 2回戦 準々決勝
1992 旧JFL1部 東芝 5位 18 23 6 5 7 - 1回戦
1993 旧JFL1部 東芝 3位 18 - 11 - 7 - 2回戦
1994 旧JFL 東芝 11位 30 - 11 - 19 - 1回戦
1995 旧JFL 東芝 8位 30 46 15 - 15 - 1回戦
1996 旧JFL 札幌 5位 30 62 20 - 10 - 3回戦

脚注[編集]

  1. ^ a b c “高橋 武夫”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_ka/takeo_kimura.html 
  2. ^ a b c 『週刊サッカーマガジン』2008年11月18日号
  3. ^ グッドデザイン賞を受賞した「エバーウエア」シリーズで名を馳せていたが、現在は廃業。
  4. ^ サッカーダイジェスト 1984年11月号 p.19 日本スポーツ企画出版社
  5. ^ a b c 『週刊サッカーマガジン』2008年11月25日号

参考文献[編集]

  • 「蹴魂 フットボーラーたちの伝説 第31回」『週刊サッカーマガジン』2008年11月18日号
  • 「蹴魂 フットボーラーたちの伝説 第32回」『週刊サッカーマガジン』2008年11月25日号
  • 『1990-1991JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990 ISBN 4-523-31032-7
  • 『1991-1992JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1991 ISBN 4-523-31033-5
  • 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993

外部リンク[編集]