講書始
ウィキペディアから無料の百科事典
講書始(こうしょはじめ)とは宮中行事の一環で、毎年1月に天皇の学問始(読書始)として学者による進講を行う。
概要
[編集]明治2年に京都御所小御所において、玉松操らが和書を代表して『日本書紀』を、東坊城任長(大学頭)らが漢籍を代表して『論語』を講義したのが最古とされる。当時は御講釈始とも呼ばれた。明治5年(1872年)に現在の呼称が定まり、翌年には皇后も列席する事、洋書に関する進講も行う事とされた。今日では皇后だけでなく、皇太子・親王及びその妃・内親王も出席する。
正式に宮中行事とされたのは、1926年(大正15年)の皇室儀制令第5条による。第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)から、和書・漢籍・洋書[1]の形を改め、人文科学・社会科学・自然科学の3分野で、各界の権威者を招くようになった。
例年、1月10日前後に皇居正殿の松の間において行われる。平成20年の出席者は天皇・皇后・皇太子徳仁親王ほか皇族一同、衆参両院議長ほかが参列。進講時間は3分野を約15分ずつの計約45分で行われている。
進講者
[編集]明治時代
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
- 1869年(明治2年)[2]
- 1870年(明治3年)[3]
-
- 国書: 福羽美静
- 漢書: 中沼了三
- 1871年(明治4年)
- 中止
- 1872年(明治5年)[3]
- 1873年(明治6年)[4]
- 1874年(明治7年)[5]
-
- 漢書: 元田永孚「帝鑑図説、李泌優待ノ條」
- 1875年(明治8年)[5]
-
- 国書: 福羽美静
- 漢書: 元田永孚「書経、大禹謨首章」
- 1876年(明治9年)[5]
-
- 国書: 福羽美静
- 漢書: 元田永孚「論語為政首章、子曰為政以徳」
- 洋書: 西村茂樹
- 1877年(明治10年)[6]
- 1878年(明治11年)[7]
-
- 漢書: 元田永孚「論語第五章道千乗国使民以時」
- 洋書: 西村茂樹「亜米利加学士希毅著修身学ノ国政篇」
- 国書: 近藤芳樹「古事記」
- 1879年(明治12年)[7]
- 1880年(明治13年)[7]
- 1881年(明治14年)[8]
-
- 漢書: 元田永孚「書経、舜典、達四聡」
- 1882年(明治15年)[8]
- 1883年(明治16年)[8]
-
- 漢書: 元田永孚・西村茂樹
- 国書: 高崎正風
- 1884年(明治17年)[9]
- 1885年(明治18年)[10]
-
- 漢書: 元田永孚「書経、益稷末章帝庸作歌曰之一節」
- 国書: 福羽美静「令義解、第四巻考課令中徳義云々之章四項」
- 洋書: 西村茂樹「英国文明論ノ内気候ノ文明ニ関係スル論、地勢ノ文明ニ関係スル論、国民気質ノ文明ニ関係スル論附保守家改新家」
- 1886年(明治19年)[10]
- 1887年(明治20年)[11]
- 1888年(明治21年)[12]
-
- 漢書: 元田永孚「周易、乾卦彖ノ辞」
- 洋書: 西村茂樹「普王フレデリツク二世略伝」
- 国書: 物集高見「続日本紀、文武天皇御紀之條」
- 1889年(明治22年)[12]
-
- 漢書: 元田永孚「大学、平天下之伝首一章」
- 国書: 高崎正風「万葉集、八之巻元正天皇御製一首」
- 洋書: 西村茂樹「ウールジー公法便覧ノ内偃武論」
- 1890年(明治23年)[12]
-
- 漢書: 元田永孚「周易、泰ノ卦二支包荒用憑河ノ一支辞」
- 洋書: 西村茂樹「ウエルテル万国史独逸史中ノ一章」
- 国書: 物集高見「続日本紀、慶雲四年夏四月壬午ノ詔詞」
- 1891年(明治24年)
- 中止
- 1892年(明治25年)[13]
- 1893年(明治26年)[13]
-
- 洋書: 西村茂樹「英国志第四約翰紀」
- 漢書: 川田剛「礼記、礼運篇」
- 国書: 物集高見「万葉集、十八之巻賀陸奥国出金長短歌」
- 1894年(明治27年)[14]
- 1895年(明治28年) - 1898年(明治31年)
- 中止
- 1899年(明治32年)[15]
- 1900年(明治33年)[15]
-
- 洋書: 細川潤次郎「普王フレデリツク第二世ノ逸事」
- 国書: 本居豊穎「万葉集、巻三詠不尽山歌」
- 漢書: 三島毅「大学、契矩章第二節」
- 1901年(明治34年)
- 中止
- 1902年(明治35年)[16]
-
- 洋書: 細川潤次郎「英国国会改革ノ顛末」
- 国書: 本居豊穎「日本書紀、巻三神武天皇御紀戊午年秋八月ノ條」
- 漢書: 三島毅「書経大禹謨ノ篇」
- 1903年(明治36年)[17]
- 1904年(明治37年)[17]
-
- 洋書: 細川潤次郎「ヒユーム氏著「英国史英人アレマダ艦隊ヲ殲滅セシ始末」」
- 漢書: 南摩綱紀「論語、顔淵篇子貢問政ノ章」
- 国書: 木村正辞「万葉集、巻一藤原宮役民作歌」
- 1905年(明治38年)[18]
- 1906年(明治39年)[19]
-
- 洋書: 細川潤次郎「埃及ト英国ノ関係」
- 漢書: 三島毅「詩経大雅蕩之什江漢篇」
- 国書: 猪熊夏樹「日本書紀神武天皇四年二月ノ條」
- 1907年(明治40年)[18]
-
- 洋書: 細川潤次郎「伊太利統一ノ歴史」
- 漢書: 重野安繹「尚書、虞書、堯典」
- 国書: 猪熊夏樹「万葉集、大伴家持喩族歌」
- 1908年(明治41年)[18]
- 1909年(明治42年)[20]
- 1910年(明治43年)[20]
- 1911年(明治44年)[21]
-
- 洋書: 穂積八束「希臘及羅馬ノ古典ニ顕ハレル祖先崇拝ノ事蹟」
- 漢書: 三島毅「周易、大有ノ卦」
- 国書: 猪熊夏樹「出雲風土記国引ノ條「所以号意宇者ヨリ蘭之長浜是也マテ」」
- 1912年(明治45年)[21]
大正時代
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
- 1913年(大正2年)
- 中止
- 1914年(大正3年)
-
- 洋書: 穂積八束「フーゴー・グローチウス著平戦法規論ノ由来」
- 漢書: 三島毅「書経、周書無逸篇「第一節ヨリ第三節ニ至ル」」
- 国書: 松本愛重「中臣寿詞」
- 1915年(大正4年)
- 中止
- 1916年(大正5年)
- 1917年(大正6年)
- 1918年(大正7年)
- 1919年(大正8年)
- 1920年(大正9年)
- 1921年(大正10年)
- 1922年(大正11年)
- 1923年(大正12年)
- 1924年(大正13年)
- 1925年(大正14年)
- 1926年(大正15年)
昭和時代
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
- 1927年(昭和2年)
- 大正天皇崩御のため中止
- 1928年(昭和3年)
- 1929年 (昭和4年)
- 政務多瑞のため中止
- 1930年 (昭和5年)
- 1931年(昭和6年)
- 1932年(昭和7年)
- 1933年(昭和8年)
- 1934年(昭和9年)
- 宮中喪のため中止
- 1935年(昭和10年)
- 1936年(昭和11年)
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)
- 1939年(昭和14年)
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)
- 1942年(昭和17年)
- 1943年(昭和18年)
- 1944年(昭和19年)
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)
- 1950年(昭和25年)
- 都合により中止
- 1951年(昭和26年)
- 1952年(昭和27年)
- 大喪中のため中止
- 1953年(昭和28年)
- 1954年(昭和29年)
- 1955年(昭和30年)
- 1956年(昭和31年)
- 1957年(昭和32年)
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)
- 1960年(昭和35年)
- 1961年(昭和36年)
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)
- 1964年(昭和39年)
- 1965年(昭和40年)
- 1966年(昭和41年)
- 1967年(昭和42年)
- 1968年(昭和43年)
-
- 人文科学:新関良三「フリードリヒ・シラーとその美的教育論」
- 社会科学:中川善之助「家族史の研究」
- 自然科学:坪井忠二「地震予知研究について」
- 1969年(昭和44年)
- 1970年(昭和45年)
- 1971年(昭和46年)
- 1972年(昭和47年)
- 1973年(昭和48年)
- 1974年(昭和49年)
- 1975年(昭和50年)
- 1976年(昭和51年)
- 1977年(昭和52年)
- 1978年(昭和53年)
- 1979年(昭和54年)
- 1980年(昭和55年)
- 1981年(昭和56年)
- 1982年(昭和57年)
- 1983年(昭和58年)
- 1984年(昭和59年)
- 1985年(昭和60年)
- 1986年(昭和61年)
平成時代
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
- 1989年(平成元年)
- 昭和天皇崩御により中止
- 1990年(平成2年)
- 都合により中止
- 1991年(平成3年)
- 1992年(平成4年)
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年)
- 1995年(平成7年)
- 1996年(平成8年)
- 1997年(平成9年)
- 1998年(平成10年)
- 1999年(平成11年)
- 2000年(平成12年)
- 2001年(平成13年)
- 2002年(平成14年)
- 2003年(平成15年)
- 2004年(平成16年)
- 2005年(平成17年)
- 2006年(平成18年)
- 2007年(平成19年)
- 2008年(平成20年)
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)
- 2011年(平成23年)
- 2012年(平成24年)
- 2013年(平成25年)
- 2014年(平成26年)
- 2015年(平成27年)
- 2016年(平成28年)
- 2017年(平成29年)
- 2018年(平成30年)
- 2019年(平成31年)
-
- 人文科学: 小松和彦 「日本妖怪文化再考」
- 社会科学: 江頭憲治郎 「日本のコーポレート・ガバナンス」
- 自然科学: 本庶佑 「免疫の力でがんを治せる時代」
令和時代
[編集]関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 渡辺幾治郎『明治天皇の聖徳 教育』(千倉書房、1941年)
関連文献
[編集]- 『天皇皇后両陛下が受けた特別講義 講書始のご進講』(KADOKAWA、2020年)、10年分の講書始を収録
脚注
[編集]- ^ 西角井正慶編『年中行事事典』p296、初版1958年(昭和33年)5月23日発行、東京堂出版。
- ^ 『明治天皇の聖徳 教育』p.53-54
- ^ a b 『明治天皇の聖徳 教育』p.54
- ^ 『明治天皇の聖徳 教育』p.54-55
- ^ a b c 『明治天皇の聖徳 教育』p.55
- ^ 『明治天皇の聖徳 教育』p.55-56
- ^ a b c 『明治天皇の聖徳 教育』p.56
- ^ a b c 『明治天皇の聖徳 教育』p.57
- ^ 『明治天皇の聖徳 教育』p.57-58
- ^ a b 『明治天皇の聖徳 教育』p.58
- ^ 『明治天皇の聖徳 教育』p.58-59
- ^ a b c 『明治天皇の聖徳 教育』p.59
- ^ a b 『明治天皇の聖徳 教育』p.60
- ^ 『明治天皇の聖徳 教育』p.60-61
- ^ a b 『明治天皇の聖徳 教育』p.61
- ^ 『明治天皇の聖徳 教育』p.61-62
- ^ a b 『明治天皇の聖徳 教育』p.62
- ^ a b c 『明治天皇の聖徳 教育』p.63
- ^ 官報第6761号、1906年1月16日
- ^ a b 『明治天皇の聖徳 教育』p.64
- ^ a b 『明治天皇の聖徳 教育』p.65
- ^ “皇居で講書始の儀 新型コロナで2カ月延期”. 時事ドットコム. 時事通信社 (2021年3月23日). 2021年3月26日閲覧。