竹田儀一
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竹田 儀一 たけだ ぎいち | |
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生年月日 | 1894年3月24日 |
出生地 | 石川県 |
没年月日 | 1973年4月30日(79歳没) |
出身校 | 京都帝国大学法科大学卒業[1] |
前職 | 鈴木商店支配人秘書 |
現職 | 神鋼商事社長 |
所属政党 | (立憲民政党→) (日本自由党→) 民主党 |
称号 | 法学士(京都帝国大学) |
第16代 厚生大臣 | |
内閣 | 芦田内閣 |
在任期間 | 1948年3月10日 - 1948年10月15日 |
初代 地方財政委員会委員長 | |
内閣 | 片山内閣 |
在任期間 | 1948年1月7日 - 1948年3月10日 |
国務大臣【無任所】 | |
内閣 | 片山内閣 |
在任期間 | 1947年6月1日 - 1948年1月7日 |
選挙区 | (大阪府第2区→) (石川県全県区→) 石川県第1区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1930年2月20日 - 1936年1月21日 1946年4月10日 - 1948年12月23日 |
竹田 儀一(たけだ ぎいち、1894年3月24日 - 1973年4月30日)は、日本の弁護士、実業家、政治家。
大阪市会議員、衆議院議員(4期)、地方財政委員会委員長(初代)、厚生大臣(第16代)、神鋼商事株式会社社長などを歴任した。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]石川県出身。1918年、京都帝国大学法科大学法律科を卒機後[1]、鈴木商店に入社し、支配人金子直吉の秘書を務めた。その後弁護士となり、さらに大阪市会議員となる。また樺太ツンドラ工業、大聖寺商業等各社の社長を歴任する。
国政
[編集]1930年の第17回衆議院議員総選挙に旧大阪府第2区から立憲民政党公認で立候補し当選。以後、18、22、23回総選挙に当選。戦前は、同郷である拓務大臣の永井柳太郎の下で大臣秘書官などを務めた。
戦後
[編集]戦後は1946年の総選挙に旧石川全県区から日本自由党公認で衆議院議員に当選するが、のちに民主党に鞍替えし、同党幹事長となる。
1947年に片山内閣で国務大臣として入閣した。当初は無任所大臣であったが、のちに地方財政委員会が新設されるとその委員長に就任した。1948年芦田内閣発足に当たっては組閣参謀を務め、自らも厚生大臣として入閣するが、炭鉱国管疑獄で嫌疑をかけられ政界を引退した。炭鉱国管疑獄では逮捕・起訴され、裁判では一審で懲役8ヶ月執行猶予1年追徴金20万円だったが、二審で無罪となり確定した[2]。その後は神鋼商事社長などを務める。
その他
[編集]- 多くの政治家同様、軽井沢に別荘があった。三桜工業代表取締役会長の篠原孝之助は竹田への弔辞のなかで「竹田さん、君は軽井沢をこよなく愛し、毎夏ここで過ごすのを、最大の楽しみとしておられました」と述べている[3]。
脚注
[編集]関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 一松定吉 | 厚生大臣 第16代 : 1948年 | 次代 吉田茂 (臨時代理) |
先代 (新設) | 地方財政委員会委員長 初代 : 1948年 | 次代 野溝勝 |
議会 | ||
先代 矢野庄太郎 | 衆議院予算委員長 | 次代 鈴木茂三郎 |
党職 | ||
先代 芦田均 | 民主党幹事長 | 次代 保利茂 |