横浜DeNAベイスターズ
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横浜DeNAベイスターズ | |
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Yokohama DeNA BayStars | |
会社名 | 株式会社横浜DeNAベイスターズ |
創設 | 1949年11月22日 |
今シーズン | |
2024年の横浜DeNAベイスターズ | |
ロゴデザイン | |
所属リーグ | |
セントラル・リーグ | |
歴代チーム名 | |
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本拠地 | |
横浜スタジアム(神奈川県横浜市中区) | |
収容人員 | 34,046 人(横浜スタジアム) |
永久欠番 | |
なし | |
獲得タイトル | |
日本一(2回) | |
リーグ優勝(2回) | |
セ・パ交流戦優勝・最高勝率(1回) (2015年から2018年までは最高勝率) | |
成績(タイトル以外) | |
日本シリーズ出場(3回) (太字は勝利した年) | |
2勝1敗 | |
クライマックスシリーズ出場(5回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
1勝4敗 | |
球団組織 | |
オーナー | 南場智子(ディー・エヌ・エー代表取締役会長) |
運営母体 | ディー・エヌ・エー(DeNA) |
球団社長 | 木村洋太 |
監督 | 三浦大輔 |
選手会長 | 大貫晋一 |
キャプテン | 牧秀悟 |
横浜DeNAベイスターズ | ||||||||
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YouTube | ||||||||
チャンネル | ||||||||
活動期間 | 2013年10月11日 - | |||||||
ジャンル | 野球 | |||||||
登録者数 | 約33.2万人 | |||||||
総再生回数 | 約2億805万回 | |||||||
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チャンネル登録者数・総再生回数は 2023年10月25日時点。 |
横浜DeNAベイスターズ(よこはまディー・エヌ・エーベイスターズ、英: Yokohama DeNA BayStars[注釈 1])は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。略称は「ベイスターズ」「横浜」「DeNA」。
神奈川県を保護地域としており、横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。また、二軍[注釈 2](イースタン・リーグ所属)の本拠地は横須賀市にある横須賀スタジアムである。更にその他には球団全体の練習場と合宿所が追浜公園内に設けられている。
1950年のリーグ分裂時に大洋ホエールズとして発足し、松竹ロビンスの合併などを経て、1955年から一貫して神奈川県内に本拠地を置き、親会社の変更などにより球団名が大洋ホエールズ→横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズと変わったのち2012年よりディー・エヌ・エー(DeNA)を親会社とする現球団名となり、現在に至る。なお、本記事ではこれらの前身球団時代についても述べる。
球団の歴史[編集]
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 | 日本 〒231-0015 神奈川県横浜市中区尾上町一丁目8番 関内新井ビル7階 |
設立 | 1953年12月16日 (株式会社大洋松竹球団) |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 1020001029572 |
事業内容 | プロ野球興行事業など |
代表者 | 南場智子(取締役オーナー) 岡村信悟(代表取締役社長) |
資本金 | 1億円(2015年12月31日現在)[1] |
発行済株式総数 | 130万株(2011年12月31日現在) |
純利益 | 12億2100万円 (2023年12月期)[2] |
純資産 | 79億1800万円 (2023年12月期)[2] |
総資産 | 167億9100万円 (2023年12月期)[2] |
決算期 | 12月末日 |
主要株主 | ディー・エヌ・エー 97.69%[3] (2015年11月現在) |
主要子会社 | 株式会社横浜スタジアム |
外部リンク | https://www.baystars.co.jp/ |
特記事項:1954年12月11日に株式会社大洋松竹球団から株式会社大洋球団へ、1993年4月に株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズへ、2011年12月2日に株式会社横浜ベイスターズから株式会社横浜DeNAベイスターズへ商号変更。 |
球団創立[編集]
林兼商店(後の大洋漁業→マルハ、現・マルハニチロ)の実業団チームとして1929年5月に山口県下関市で創立[4]され、翌1930年の第4回全日本都市対抗野球大会では初挑戦ながら、全国大会出場を果たした(初戦敗退)。翌年は中国大会でベスト4に入るなどの成績を残したが、世界恐慌の影響などで1932年の第6回全日本都市対抗野球大会前に休止状態となり、軟式野球部だけが太平洋戦争開始前後まで存在していた[5]。戦後、1946年6月に大洋漁業(1945年12月に改称)軟式野球部として復活、同年11月(一説には1947年3月)には硬式野球部へ変更された。その後の都市対抗野球では全国大会の常連となり、1948年には国体で優勝し、一躍名を上げる[5]。
1949年オフにプロ野球がリーグ拡張方針を打ち出すと、各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部から戸倉勝城・河内卓司・徳網茂ら主力選手が新球団の毎日オリオンズに引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた前社長中部兼市は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出すこととなった。
1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セントラル・リーグに加盟。下関市をフランチャイズ、下関市営球場(下関球場とは別)を本拠地球場とした。本来、大洋の社章と同じ「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている[6]。
社会人野球としての大洋漁業野球部はまるは球団創立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、1951年まで活動していた[5]。
下関時代(旧・大洋時代)[編集]
1950年シーズン開幕後に大洋ホエールズ(たいようホエールズ)に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、読売ジャイアンツからベテランの中島治康と平山菊二、大陽ロビンスから藤井勇と林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清や長持栄吉、片山博ら、阪急ブレーブスから宮崎剛や今西錬太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さはいかんともしがたく、リーグ参戦1年目は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。
特に、1950年は超長期遠征を強いられる状態となり、6月21日の兼六園球場を皮切りに、8月27日の後楽園スタヂアムに至るまでの延べ69泊70日・17会場で36試合を、北は旭川市から西は本拠地に近い徳山市まで、下関以外で消化するという異例の日程が組まれていた[7]。
1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって、広島との合併の話は立ち消えになった。1952年、9月7日の対松竹ロビンス戦(京都市西京極総合運動公園野球場)は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。同年度から保護地域(フランチャイズ)制度が正式導入となり、山口県を保護地域と定めるも、下関での主催は18試合(年間ホームゲームは60試合)に留まった。その他の主催試合は徳山市営毛利球場3試合、防府市設野球場2試合、門司市営老松球場2試合、小倉・豊楽園球場3試合、平和台野球場5試合、長崎市営大橋球場3試合のほか、佐賀市営・熊本市水前寺野球場・大分県営でも開催し、山口県を含む九州で39試合(うち山口県内では3球場で23試合)の主催試合を行い、下関時代は下関を中心とする北部九州の球団という意味合いも強かった。その他は浜田市設、旧松江市営、岡山県営球場、甲子園球場、川崎球場、熊谷市営、越後髙田、長岡、新潟白山、宇都宮総合、宮城球場、盛岡市営、弘前市営球場、函館千代ヶ岱球場で開催された[8]。
大阪時代(大洋松竹→洋松時代)[編集]
1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決め[注釈 3]の該当球団となった松竹ロビンス[注釈 4]と対等合併に合意、セ・リーグは6球団体制となる。大洋松竹ロビンス(たいようしょうちくロビンス)に改称し、翌1954年には通称名の洋松が入る洋松ロビンス(ようしょうロビンス)に改称した。
1953年シーズンは球団の合併・統合が決まりながらも、運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つの球団を運営するという変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属球団から支給された。主催試合は、名目上は下関市営球場と衣笠球場を並列で本拠地登記したものの、実際には興行面の利点から大阪球場で行われた。なお衣笠球場は木造スタンドだったため、1951年の中日スタヂアム全焼火災事故発生をきっかけに防災上の観点から所有者の立命館大学が使用禁止令を出したことから、合併後は行われていない[9]。
1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併で正式統合され(当時の会社名は株式会社大洋松竹球団)、球団事務所も大阪スタヂアム内に置かれた。
大洋漁業と松竹以外の資本構成が複雑だったことから、新聞・雑誌によって「大洋」「松竹」「洋松」と呼称が一定していなかった。また、1953年2月8日の京都新聞は、この前日に新大阪ホテルで開催した大洋漁業と松竹の合同会見について「今回の合併は全面的な松竹の敗北であり、プロ球界の惑星と呼ばれた田村駒治郎(松竹球団オーナー)の発言力も、ロビンズのニックネームを遺したほどにしか過ぎない」と、事実上大洋が主導権を握った合併であるように受け止められている[9]。
ロビンス時代の球団成績は1953年は5位。翌1954年は32勝96敗2分で最下位となり、優勝した中日ドラゴンズとは55ゲーム離され、5位の国鉄スワローズに23ゲームの大差を付けられる大惨敗であった。
川崎時代(新・大洋時代)[編集]
1954年12月11日限りで松竹は球団経営から撤退し、中部謙吉がオーナーとなる。球団名を大洋ホエールズに戻し[注釈 5]、1955年のシーズン開幕直前となる2月15日、保護地域を神奈川県横浜市にあった横浜公園平和野球場(後の横浜スタジアム)へ移転した[10]。当初は東京移転を計画しており、東京都に本拠地を置く読売ジャイアンツ(巨人)からは了承を得たが、同じく東京を本拠地としていた国鉄が反対したため、横浜平和球場に本拠地を移転した[10]。しかし、同球場もスタンドが狭いなど、プロ野球チームが常時使用するには適さない球場だったため、大洋球団は「横浜は神奈川県内」「県内ならプロ野球をすでに開催している川崎球場に」と本拠地を拡大解釈し、同じ神奈川県内にある川崎球場(川崎市川崎区)への移転を決定[10]。当時既に川崎球場を本拠地としていたトンボユニオンズ(パシフィック・リーグ)はこれに反発したが、当時の川崎市長・金刺不二太郎が「セ・パの球団が市民に野球の神髄を披露してくれれば」と仲介し、川崎移転が決定した[10]。しかし、このように急な拡大解釈で本拠地移転問題を解決したため、球団がNPBに届け出た書類では本拠地は横浜、開催球場は川崎とされており、これが後の横浜移転時に横浜市と川崎市が対立する原因となる[10]。球団事務所は川崎市中原区に設置された。
川崎球場を本拠地とする新生・大洋ホエールズとして再スタートしたが、成績は31勝99敗の最下位。首位・巨人とのゲーム差はNPB史上最大記録となる61.5ゲーム差まで開き、5位・国鉄にも27ゲームの大差をつけられてシーズンを終えた[11][12]。
1956年に明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5人も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。エース・秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、巨人から移籍した青田昇が三度の本塁打王を獲得。
ロビンス時代の1954年から6年連続最下位。この年に1955年から同チームからリーグ最多敗戦投手のNPB記録となった(1955年権藤正利、1956年から1959年秋山登で秋山は新人から4年連続リーグ最多敗戦投手でこちらもNPB記録)。
前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人の近藤昭仁と、シーズン中に近鉄バファローから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出して水原茂監督率いる巨人と優勝争いを演じ、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも大毎オリオンズ相手に全て1点差勝利で4連勝。日本一に輝いた[13]。なお、大洋は1978年から球団名を横浜大洋ホエールズ、フランチャイズを横浜市、1993年から球団名を横浜ベイスターズに変更し、1978年から本拠地を横浜スタジアムに移転するため、大洋ホエールズおよび川崎時代としてのリーグ優勝・日本シリーズ・日本一、川崎球場での日本シリーズはこの年が最初で最後となった。
この日本一により、大洋は「球団数を12球団に変更後、初代セ・リーグ日本一球団」となった[14][15]。
開幕4連勝こそしたが、その後失速。昨年のリーグ優勝・日本一球団がわずか1年でリーグ最下位となった。
1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うも、あと一歩及ばず、1963年は最下位・広島と1ゲーム差の5位。
1965年以降、チームの勝率は1969年から1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。三原は1967年に監督を退任。1965年から1973年にかけての巨人の9連覇中、大洋は強力打線で巨人の投手陣を粉砕するものの、貧弱な投手陣が同様に打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の巨人に打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋で、それも両翼89メートル、中堅118メートルという本拠地・川崎球場の狭さも少なからず、関係していた。
開幕から6月頃までは混戦のセ・リーグで広島とともに首位争いの主導権を握っていた。ところが、7月頃から徐々に低迷し、結果的に巨人のV9を許し、優勝争いに最後まで加われなかったヤクルトにも抜かれ、前年と同じく5位に終わった。青田昇が成績不振の責任をとって監督辞任。
チームは3年連続5位。松原誠が初めて打率3割をマーク、最多安打を獲得。
4年連続5位。
15年ぶりの最下位。川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は横浜での新球場建設の資金を捻出するため、飛鳥田一雄横浜市長の斡旋で国土計画(後のコクド、現・プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は大洋漁業55%、国土計画45%となった。
2年連続最下位。オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎が継承した。松原や米田慶三郎といった守備の名手に加え、クリート・ボイヤー、ジョン・シピン、フェリックス・ミヤーンら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980年代に入っても、山下大輔、基満男、高木豊に受け継がれた。
横浜時代[編集]
横浜大洋ホエールズ時代[編集]
国土計画の主導で神奈川県横浜市中区[注釈 6]の横浜公園内に建設した横浜スタジアムに移転[注釈 7][注釈 8]。川崎球場は当時、大洋の長期低迷から集客も低迷しており、その打開策を考えていた中で横浜スタジアム建設構想が持ち上がったのである[18]。大洋球団は前述のように川崎移転時、当初の本拠地は横浜として届け出ており[10]、同球団にとってはプロ野球開催に適した野球場が横浜に完成した暁には名実ともに横浜へ移転することはいわば既定事項であった[18]。一方で横浜移転問題が浮上した1977年、これに反発した川崎市民は移転反対運動を展開し、市長の伊藤三郎を代表とした「大洋球団横浜誘致に反対する川崎市民総連合」が結成され、市民54万人分の署名が横浜市、横浜スタジアム、大洋球団へと届けられたが、横浜市側も飛鳥田一雄新市長の下で熱心に大洋を誘致、最終的に大洋は同年7月、正式に横浜移転を川崎市へ通告した[18]。一方で主を失うこととなった川崎市側は神奈川県への進出を目指していたロッテオリオンズの誘致に乗り出し、移転先の第一候補を横浜としていたロッテも最終的には第二候補であった川崎への移転を決める[18]。神奈川県内で大洋以外のNPB球団が主催試合を開催する場合、同県を保護区域としている大洋の許可を得る必要があったが、大洋は横浜移転にあたり、他球団が川崎球場での試合開催を希望した場合は前向きに推進するとの譲歩案を示したため、ロッテの川崎移転への障害はなくなり、川崎からプロ野球の灯を消すまいと新たな市民球団としてロッテの誘致を進めていた川崎市側と新球場への移転を目指していたロッテ球団側の利害が一致、ロッテは川崎球場に移転することとなった[18]。
横浜移転と同時に球団名も都市名を入れた横浜大洋ホエールズ(よこはまたいようホエールズ)に変更。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置[注釈 9]など、営業体制の改革を伴った改変により、ファンが増加した。国土計画(後のコクド、現・プリンスホテル)が福岡野球株式会社(クラウンライターライオンズ)を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はニッポン放送とTBS(現・TBSホールディングス)に2:1の割合で売却された。これにより、2002年初めまで球団株式保有率は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)55%、ニッポン放送30%、TBS(現・TBSホールディングス)15%となった。しかし、この15年間で1度もリーグ優勝はなかった。
別当監督時代[編集]
序盤は巨人と、6月からはヤクルトも交えた三つ巴の首位争いを展開する。移転初年度の年は4位に終わるが、1971年以来7年ぶりに勝ち越し、観客動員は143万7千人となり、球団史上初めて100万人を突破している[注釈 10]。
8年ぶりAクラスの2位に躍進。この年をもって別当は監督を退任。翌年、大洋球団の常務取締役・球団代表に就任した。
土井監督時代[編集]
土井淳が監督就任。初年度は4位。ドラフトでは地元東海大学の原辰徳を1位指名したが、交渉権を獲得できなかった。
キャンプでは野球用具が盗難に遭ってしまう。開幕の広島戦が雨で2試合とも流れたため、開幕はホームでの巨人戦となったが、その巨人に8連敗。5月下旬に最下位に低迷し、6月に山下大輔が月間MVPを受賞して成績を勝ち越し、復調するかに見えたが、7月以降は連敗を繰り返して最下位脱出に至らず、土井はシーズン中の9月24日をもって休養。優勝した巨人から31.5ゲーム差、5位・中日にも15.5ゲーム差も離された最下位に終わる。
関根監督時代[編集]
長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎えたが、長嶋の招聘には失敗した。また、ジュニアと呼ばれた関根浩史入団について日産野球部との交渉が破談した。この年は5位に終わる。オフに長嶋は一時は就任に前向きな態度を見せるも、最終的には「もう少し野球を勉強してから」と固辞。関根は長嶋の就任が決まれば勇退することを決めていたが、長嶋の就任辞退により、続投。
4月は最下位で折り返すが、その後、次第に浮上していき、3位と4年ぶりのAクラスになる。
最下位に転落。この年限りで平松政次が引退。同年限りで関根は辞任。
近藤貞雄監督時代[編集]
近藤貞雄が監督に就任。高木豊、加藤博一、屋鋪要のスーパーカートリオを売り出し、注目された。しかし、遠藤一彦、斉藤明夫頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は4位と振るわなかった。
年明けにレオン・リーを解雇し、カルロス・ポンセ、ダグ・ローマンを獲得。投手陣はストライクゾーンの改正もあり開幕戦から阪神に3連勝するなど、勢いがあったものの、加藤博一、田代富雄ら主力が離脱すると、選手層の薄さを露呈し[20]、4位に終わり、近藤貞雄は2年で監督を退任。屋鋪要はこの年から3年連続盗塁王。
古葉監督時代[編集]
広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎え、広島時代のコーチやスカウトで首脳陣を固めた。他球団からもベテランの永射保、片平晋作らを獲得して積極的に起用した。また、韓国球界から復帰した新浦壽夫は11勝でカムバック賞。遠藤は10月の巨人戦で走塁中にアキレス腱断裂の負傷。打撃陣は開幕直前にメジャーで実績のあるレスカーノを前年に実績をあげたローマンを解雇してまで獲得したが、すぐに引退してしまう。外野転向のポンセは4番に定着して35本塁打、高橋雅裕は遊撃手のレギュラーとなる。5位に終わる。将来的に長嶋茂雄の監督招聘を見据え、ドラフト会議で長嶋一茂を1位指名するが、競合の末にヤクルトが指名権を獲得したため、長嶋招聘の話は無くなった。
出場機会が減っていた山下大輔が開幕直前に引退。新加入のジム・パチョレックは高木とともに3割を打って、ポンセも本塁打王、打点王の2冠。投手では中山裕章が抑えに定着し、捕手は市川和正が抜擢された。最終成績は4位。
この年は昭和最後のペナントレースだったので、大洋は当時の12球団の中で日本ハム、近鉄と共に「昭和時代に1度もリーグ優勝・日本一を本拠地で飾れなかった球団」となった[注釈 11][注釈 12][注釈 13]。
開幕から振るわず、屋鋪は不調でスタメン落ちすると、山崎賢一が台頭して規定打席に届かずも3割を打ってシーズン終盤には4番まで任された。パチョレックは.333の好成績を収めるが、ポンセは前年から成績を落とす。投手陣はベテランに衰えが見え始めて軸ができなかった。古葉は1984年以来5年ぶりの最下位の責任を取り、5年契約ながら3年目で監督を辞任した。このことについて、成績不振と開幕から低迷したことで、スポーツ紙等で進退問題に関する記事が出て、球団からの辞任勧告につながったのだろうと述べている[21]。しかしこの間、1998年の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえるが、古葉の後任監督にはOBでは元監督の土井淳、山下大輔、外部招聘では高田繁の名前が挙がったものの、大洋で2年間二軍監督に経験のある須藤豊が監督に就任し、投手コーチには小谷正勝が3年ぶりに復活した[22]。
この年は平成最初のペナントレースだったので、大洋は「平成最初のセ・リーグ最下位球団」となった[23]。
須藤監督時代[編集]
序盤は巨人との熾烈な首位争いを見せ、その後失速し、最後は広島にも抜かれて3位に終わるも、9年ぶりに中日に勝ち越して7年ぶりのAクラスを果たす。巨人の二軍監督で実績を残した須藤監督は若手を積極起用した。また、パワーのあるジョーイ・マイヤーを獲得し、ポンセは主にファームで終わり、退団した。パチョレックは高木豊と首位打者を争って3年目にして念願の獲得。中山裕章は先発転向し、遠藤は抑えに回ると、21セーブでカムバック賞。加藤博一が現役を引退した。
阪神以外のセ・リーグ5球団の首位争いの中、4月は首位に立つも、その後失速し、5月以降は5位に転落。野村弘樹は15勝を挙げる。パチョレックは4年連続の3割を打つも、本塁打の少なさから解雇された(阪神に移籍)。10月10日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に田代富雄が現役を引退した。オフの12月25日に前年から2年連続で開幕投手を務めていた主力投手・中山裕章が横浜市内で女児への連続強制わいせつ事件を起こしたとして、神奈川県警察(捜査一課・金沢警察署)に強制わいせつ・公然わいせつ容疑で逮捕され[24]、年明け後の翌1992年1月7日に球団を解雇された[25]。また、この事件に伴い、川島廣守セ・リーグ会長はNPB12球団に対し、「中山の更生が確認されるまで無期限に選手契約を自粛することを要望する」と声明を出したが[26]、この声明は2年後(1993年12月)に撤回され、中山は中日で球界復帰を果たした[27]。
須藤→江尻監督時代[編集]
前述の事件で中山を欠いた状態で開幕を迎えたチームは低迷し、5月に須藤監督が休養・辞任し、ヘッドコーチの江尻亮が監督代行。のちに監督に昇格し、閉幕まで采配を振る。本人の希望で野手転向した石井琢朗がレギュラーを取る。盛田幸妃と佐々木主浩のダブルストッパーが確立され、チームも復調し、混戦だったリーグ戦で1985年以来7年ぶりに広島に勝ち越し、優勝したヤクルトにも勝ち越す健闘を見せたが、5位に終わり、江尻の来シーズンの契約更新はなかった。新入団のラリー・シーツは打点王を獲得したが、退団。遠藤は引退。
横浜ベイスターズ時代[編集]
1993年4月1日、親会社の大洋漁業がCI実施により、マルハに改称することに伴い、ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を横浜ベイスターズに改称した。会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使った「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し、「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「横浜ベイブリッジ」から取ったベイスターズとなった。
球団名変更に伴い、ユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。
近藤昭仁監督時代[編集]
選手育成に定評があったチーム生え抜きの近藤昭仁が監督に就任[28]。近藤昭仁と西武時代が一緒だった長池徳士がヘッド兼打撃コーチ[29]、近藤昭仁の早稲田大学の後輩・高橋直樹が投手コーチ、近藤昭仁と同じくチーム生え抜きの山下大輔が内野守備走塁コーチ[30]、後に監督に昇格する大矢明彦がバッテリーコーチに就任。新外国人選手としてグレン・ブラッグスとロバート・ローズを獲得[28]。15試合を消化した時点で2勝13敗とつまづいた[28]。それでも徐々に巻き返し、7月13日のヤクルト戦に勝利した時点で36勝34敗の2位[28]。しかし、その後はブラックスが故障で離脱する不運もあり、翌日から10連敗を喫し、浮上することなくベイスターズ初年度は5位に終わるが[28]、巨人には1985年以来8年ぶりに勝ち越した。ブラッグスは29試合連続安打の外国人選手記録を塗り替えるも、後半は故障、ローズは打点王を獲得。また、石井は盗塁王。投手では野村が17勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得[28]。石井、進藤達哉が初の規定打席到達[28]。10月22日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に斉藤明夫が現役を引退した。この年のオフから始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に近藤を師と慕う巨人の駒田徳広を獲得[28]。長年チームを支えた、高木豊、屋鋪要、山崎賢一、大門和彦が自由契約となり(高木は日本ハム、屋鋪は巨人、山崎はダイエー、大門は阪神に移籍)、市川和正と松本豊が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。
怪我から復活したブラックスが35本塁打を放ち、駒田は攻守で期待に応え、ローズも安定した成績を残すなど、6月下旬までは勝率5割近辺の戦いぶりを見せるが、前年同様シーズン途中でチームは失速。9月にやや復調し、勝率自体は前年を上回ったが[28]、結果的に1989年以来5年ぶりの最下位に終わるも[28]、優勝した巨人に唯一勝ち越した。前半戦を離脱していた守護神・佐々木主浩の穴を16セーブを挙げた盛田幸希の活躍が光った[28]。
近藤昭仁の早稲田大学の後輩・八木沢荘六が投手コーチに就任[31]。8月下旬まで巨人と3位争うも、直接対決で大きく負け越したことが響き、結果的に4位に終わるも[28]、1990年以来5年ぶりに中日に勝ち越し、1979年以来16年ぶりの勝率5割以上を果たす[28]。確かなチーム力の向上が見られた[28]。佐々木は32セーブを挙げて完全復活(最優秀救援投手賞)、リーグ最多の57試合に投げた盛田とダブルストッパーの必勝パターンを形成した[28]。三浦大輔が初めて規定投球回を投げ8勝、2年目の波留敏夫がレギュラーに定着して打率.310を記録、石井も自身初の3割を達成[28]。鈴木尚典は規定打席にわずかに届かなかったものの、打率.283、14本塁打と活躍を見せた[28]。若手が成長し、手応えを感じていた近藤だったが、オフに志半ばで解任された[28]。
第1次大矢監督時代[編集]
バッテリーコーチの大矢明彦が監督に昇格。盛田を先発、五十嵐をセットアッパー、内野手の石井を三塁から遊撃、進藤を遊撃から二塁、ローズを二塁から三塁にコンバートするなど、大改革をする。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも、5月以降は失速し、セ・リーグ5球団に負け越し、5位に終わった。
後に監督に昇格する権藤博がバッテリーチーフコーチ、後に打撃コーチに配置転換されるチーム生え抜きの田代富雄が二軍(2000年から2010年は湘南シーレックス)打撃コーチに就任。シーズン序盤は下位に低迷していたが、選手の実績により、好調を優先した起用をし始めると、チームは浮上し、シーズン後半に首位のヤクルトを脅かす急追を見せた。しかし、9月2日、首位ヤクルトとの直接対決で石井一久の前にノーヒットノーランで敗れると、勢いも止まり、2位に終わったが、1990年以来7年ぶりのAクラス入りを果たした。広島に1992年以来5年ぶりに勝ち越したが、この年Bクラスだった巨人と阪神に負け越した。オフに大矢は2年契約を終えて監督を辞任。
権藤監督時代[編集]
- 1998年
- シーズンスローガン:「GET THE FLAG!」
バッテリーチーフコーチの権藤博が監督に昇格。抑えの佐々木を不動の中心とする投手陣と一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」がかみ合い、10月8日の対阪神戦(阪神甲子園球場)に勝利したことで、阪神に1993年以来5年ぶりに勝ち越し、1960年以来38年ぶりのリーグ優勝[注釈 14]を果たした[注釈 15]。日本シリーズでは西武ライオンズと対戦した。下馬評は西武有利と予想されたが[32]、4勝2敗で1960年以来38年ぶりの日本一となる。なお、横浜は2012年から球団名を横浜DeNAベイスターズに変更するため、横浜ベイスターズとしてのリーグ優勝・日本シリーズ・日本一はこの年が最初で最後となった。ベストナインに6選手、ゴールデングラブ賞に5人が選出される。また、前年怪我のため、一軍登板がなかった斎藤隆が復活を果たし、カムバック賞を獲得。ドラフトではこの年の目玉選手・地元横浜高校の松坂大輔を1位指名したが、獲得できなかった。
- 1999年
- シーズンスローガン:「LET'S PLAY AGAIN!」
ロバート・ローズが当時右打者シーズン最高の打率.369、153打点を記録し、二冠王に輝く活躍を見せるなど、マシンガン打線が絶好調で、チームはシーズン通算打率.294と当時のチーム打率の日本記録[注釈 16]を更新する。しかし、投手陣は川村丈夫が17勝[注釈 17]を挙げるものの、三浦大輔の不調や野村弘樹、佐々木主浩の故障などで頭数が揃わず、3位に終わった。オフに佐々木が大リーグ・シアトル・マリナーズに移籍。
- 2000年
- シーズンスローガン:「FIGHT FOR IT!」
この年よりファーム組織を湘南シーレックスに変更し、独立採算を目指した活動を開始する。ロッテから小宮山悟が入団。金城龍彦が新人王と首位打者に輝くものの、投打共に不調や故障者等で優勝争いには届かず、2年連続3位に終わった。オフに権藤が監督を勇退。主力打者のローズ、駒田も退団した。
この年は20世紀最後のペナントレースだったので、横浜は当時の12球団の中で日本ハムと共に「20世紀に1度もリーグ優勝を本拠地で飾れなかった球団」となった[注釈 18]。
森監督時代[編集]
- 2001年
- シーズンスローガン:「FIGHT IN UNITY」
西武を8度のリーグ優勝に導いた森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続Aクラスと3年連続3位に終わった(この年の順位に関しては後述)。オフにチーム最多勝投手の小宮山がメジャーリーグに挑戦するために退団した。正捕手の谷繁元信が監督の森との確執もあり[33]、中日にFA移籍。中日から金銭トレードで中村武志を獲得。監督の森の西武時代の教え子の森繁和を投手コーチ、辻発彦を内野守備走塁コーチに招聘した。
2002年1月26日に筆頭株主(親会社)がマルハ(現・マルハニチロ)からニッポン放送に変更される予定だったが、ニッポン放送の当時の関連会社だったフジテレビジョン(現・フジ・メディア・ホールディングス)がヤクルト球団株を20%強保有していたため、一転してTBS(現・TBSホールディングス)への移行がプロ野球オーナー会議で承認された。
TBS(現・TBSホールディングス)変更後[編集]
球団オーナーは当時の東京放送社長砂原幸雄となった(詳細はマルハ(現・マルハニチロ)からTBS(現・TBSホールディングス)への筆頭株主交代の節を参照)[注釈 19]。これに際し、1978年からニッポン放送が独占中継権を押さえていたために喪失していたTBSラジオの中継権が復活。横浜スタジアムからのナイター中継の他、巨人戦以外の週末のデーゲームを「THEベースボール・ベイスターズ」と題して放送を開始した。これを境に、フジテレビ系列での横浜スタジアムの野球中継は年々減少していった。しかし、この10年間で1度もリーグ優勝はなかった。
- 2002年
- シーズンスローガン:「Break with Tradition」
田代湘南シーレックス打撃コーチが打撃コーチに配置転換された。開幕から記録的な低迷が続き、球団ワーストタイ目前となる1986年以来16年ぶりの13連敗を喫するなど、全日程で1994年以来8年ぶりの最下位となり[注釈 20]、9月26日に監督の森がシーズン終了を待たずして休養を余儀なくされ、3年契約の2年目ながらこの年限りで事実上の解任となり、翌27日からヘッド兼打撃コーチの黒江透修が監督代行として指揮を執ることを発表した。オフに監督代行の黒江が退団した。この年での最終勝率は.363だった。NPB12球団で唯一サヨナラ勝ちがなく、サヨナラゲームは0勝6敗となった。セ・リーグでサヨナラ勝ちなしは1978年の広島以来24年ぶり。チーム防御率は3.75から4.09、チーム失策も68から81に悪化した。チーム防御率・失点リーグ5位、チーム打率・得点・安打・本塁打はリーグ最下位に終わり、投手・打撃・守備すべてにおいて低迷した。西武から石井義人、細見和史との2対2トレードで中嶋聡、富岡久貴を獲得。2つあった応援団が統合し、全国星覇会が発足。
この年から2015年にかけて14年間で10回のリーグ最下位を経験する暗黒時代を迎えることになる。
山下監督時代[編集]
- 2003年
- シーズンスローガン:「Start afresh and Strive 一新・躍進」
チーム生え抜きの山下大輔が監督に就任。田代打撃コーチが湘南シーレックス打撃コーチに復帰。現役メジャーリーガーのスティーブ・コックスを移籍金100万ドル、年俸275万ドルの3年契約でダイエーからFA宣言した若田部健一を獲得するなど、大型補強を試みる。だが、コックスらは怪我などで戦力にならず、若手重視、攻撃重視の采配もことごとく空回りする。新外国人のタイロン・ウッズや新人の村田修一、若手の多村仁ら野手陣の活躍はあったものの、勝率も前年を下回る.324を記録。5位・広島からも22.5ゲーム以上離され(2003年シーズン優勝・阪神と5位・広島のゲーム差は20)、優勝した阪神には開幕戦で白星後は16連敗を喫するなど、大きく苦しみ、6勝22敗と大きく負け越した。45勝94敗1分と惨憺たる成績で、シーズン90敗到達はNPBでは1970年のヤクルト以来実に33年ぶりだった。オフに日本ハムから横山道哉とのトレードで野中信吾を獲得。中村武志の復調や相川亮二の台頭で来季構想外となった中嶋聡が金銭トレードで日本ハムに移籍。佐々木主浩が年俸6億5,000万円の2年契約を結び、5年ぶりに復帰。
- 2004年
- シーズンスローガン:「BE A HERO」
田代湘南シーレックス打撃コーチが再び打撃コーチに配置転換された。打撃陣が好調で4月終了時点で首位に立つも、その後投手陣の不振により、徐々に失速し、シーズン終了目前まで広島との5位争いを続ける中、最終戦に敗れ、広島と勝率0.001(1厘)差という僅差で1959年以来45年ぶりの3年連続最下位が確定した。一方、前年大きく負け越した阪神には15勝13敗で勝ち越し、3位の巨人には9月下旬の横浜スタジアムの3連戦で3連勝して14勝14敗のタイとなるなど、一定の成績は残した。山下は監督を退任。オフにオーナーの砂原幸雄が一場靖弘への金銭授受の問題の責任をとって辞任し、TBS(現・TBSホールディングス)副社長の若林貴世志が新オーナーに就任。
牛島監督時代[編集]
- 2005年
- シーズンスローガン:「BE A HERO」
牛島和彦が監督に就任。主砲のウッズが中日に移籍するも、不調だった三浦をはじめ、投手陣が復活し、2001年以来4年ぶりの3位と暗黒時代で唯一のAクラス入りを果たした。また、巨人には東京ドームで同一カード3連勝を記録するなど、一度も負け越しがなく、16勝6敗と大きく勝ち越した。しかし、8月9日にフルキャストスタジアム宮城で行われた引退試合を最後に佐々木主浩が現役を引退した。エグゼクティブ・アドバイザーとして牛島の友人である石橋貴明(とんねるず)を抜擢、監督・選手とファンとのパイプ役を担わせるなど、新しいファンサービスを行った。オフに斎藤隆がロサンゼルス・ドジャースに移籍。
- 2006年
- シーズンスローガン:「BE A HERO」
投手陣や主力野手陣の相次ぐ不調・故障などで4、5月に低迷。6月以降は村田の4番打者定着や吉村裕基ら若手野手の台頭があったものの、最下位に終わる。球団側は続投を希望したものの、牛島は最下位の責任を取り、9月3日にこの年限りで監督を退任。この年チーム唯一の2桁勝利だが、年俸査定に不満を持った門倉健が巨人にFA移籍。巨人から小田嶋正邦+金銭とのトレードで仁志敏久、ソフトバンクから多村仁とのトレードで寺原隼人、巨人にFA移籍した門倉の人的保障として工藤公康を獲得。日本ハムを自由契約となった横山道哉が4年ぶりに復帰。
4月3日、スポーツ活動を通じて地域貢献を目指すNPO法人横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティを、理事長を球団OBの平松政次として設立した。7月1日、子会社の株式会社ベイスターズソフトを吸収合併する。10月、「チーム運営統括」というゼネラルマネージャー的ポジションの幹部として日産自動車硬式野球部で監督を務めた村上忠則が就任。12月1日、資本金を6億5,000万円から1億円へ減資する。
第2次大矢監督時代[編集]
- 2007年
- シーズンスローガン:「MOVE ON~なせば成る~」
大矢明彦が10年ぶりに監督に復帰。田代打撃コーチが湘南シーレックス監督に就任。前半戦は移籍組やベテラン勢の活躍で一時首位に立つなど、上位を猛追し、3位で折り返す。最終戦で敗れ、シーズン勝ち越しを逃して4位に終わるが、1999年以来8年ぶりに70勝に到達し、村田が球団日本人選手としては桑田武以来48年ぶりの本塁打王と球団初の2年連続100打点を達成し、三浦大輔も35イニング連続無失点、寺原隼人も2試合連続完封を記録するなど、主力選手の活躍が目立ち、翌年へ希望を持たせた。オフにマーク・クルーンが自由契約となった(巨人に移籍)。オリックス・バファローズから古木克明とのトレードで大西宏明を獲得。
- 2008年
- シーズンスローガン:「MOVE ON~なせば成る~」
開幕投手最有力で阪神キラーの三浦大輔が出遅れ、開幕カードの阪神戦を3連敗すると3・4月に連勝なし、7月までに5連敗以上を4度記録し、4連敗を7月は2度、8月も1度記録し、9月14日から10月3日まで1つの引き分けと7連敗2度の15試合勝ちなしと低迷を続けた。一方、スウィープ(同一カード3連勝)は8月の北京五輪と夏の甲子園期間中に京セラドームで行われた阪神との3連戦の1度だけで最大の連勝は3に留まった。
セ・リーグで2番目に喫した広島の594失点から110点以上も離れて706失点、12球団で最少だった阪神(85被本塁打)の倍近くにあたる168本塁打を打たれ、いずれも12球団ワースト。与四死球492(与四球がリーグ5位の412、与死球が12球団ワーストの80)はセ・リーグワースト止まりな一方で、6月10日に巨人から鶴岡一成とのトレードで真田裕貴、16日に中日から小池正晃とのトレードで石井裕也を獲得するなど、投手陣を補強したが、チーム防御率4.74(先発防御率が5.09と12球団ワースト、救援防御率が4.25とセ・リーグワースト)に858奪三振と12球団ワーストを記録。在籍3年間で84セーブを挙げたクルーンが巨人に移籍したことで、27セーブと9回の失点は52はいずれもセ・リーグワーストを記録した上、先発投手が5回未満で降板した試合数53と先発投手が6回以上投げて自責点3以内に抑えた割合(QS%)の31.3%はいずれも12球団では群を抜くワーストだった。
この年に飛躍し、右打者シーズン最高打率を塗り替え、首位打者と最多安打を獲得した内川聖一、本塁打王を獲得した村田、30本塁打を記録した吉村とリーグ屈指の強力なクリーンアップを擁したが、四球を12球団ワーストの314個しか選べなかったため、チーム打率は.2655にもかかわらず、出塁率は.31552と12球団ワーストだった。加えて盗塁は37と4年連続でリーグワースト[注釈 21]を記録し、盗塁成功率も.552と67回の盗塁企図数と共に12球団では群を抜くワーストだった。
10月5日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に川村丈夫が現役を引退した。
投打ともにリーグまたは12球団のワースト記録を量産し、2006年以来2年ぶりの最下位に沈み、2003年以来5年ぶりの90敗を記録。チームの勝率は.338と内川の打率(.378)よりも低く、「リーグ首位打者のシーズン打率が所属チームの勝率を上回る」という2リーグ分裂後ではプロ野球史上初となる珍事も発生する始末で、オフにヘッド兼打撃コーチの弘田澄男、投手コーチの斉藤明夫ら4コーチが解任。石井琢朗が自由契約となり(広島に移籍)、鈴木尚典が戦力外通告を受け、その後現役を引退した。相川亮二がヤクルトにFA移籍。広島から金銭トレードで森笠繁、阪神からFA宣言した野口寿浩を獲得。
- 2009年
- シーズンスローガン:「MOVE ON~なせば成る~」
ワールド・ベースボール・クラシックでの村田の故障などによって、開幕6連敗を喫するなど、序盤から低迷し、5月18日に監督の大矢が無期限休養に入り、併せて湘南シーレックス監督の田代が監督代行として指揮を執ることを発表した。一方、7月に新外国人としてスティーブン・ランドルフを獲得。しかし、チームを浮上させることはなく、93敗を喫し、2年連続最下位に終わる。前年と同様、貯金は一度もなく、無期限休養に入っていた監督の大矢は正式に、監督代行の田代は退任、投手コーチの杉本正は1年で解任。チーム防御率・失点[34]・打率・得点[35]はリーグ最下位に終わった。11月11日、後任監督としてこの年まで巨人の投手コーチを務めていた尾花高夫を迎え入れ、横浜港を周遊する「マリーンルージュ」で就任記者会見を行った。
オフに仁志敏久が退団し(ランカスター・バーンストーマーズに移籍)、工藤公康が自由契約となり(西武に復帰)、横山道哉が戦力外通告を受け、その後現役を引退した。ロッテから那須野巧、齋藤俊雄との2対1トレードで清水直行、元ロッテの杉原洋、日本ハムから加藤武治、松家卓弘、関口雄大との3対3トレードで稲田直人、坂元弥太郎、松山傑、ソフトバンクを自由契約となった篠原貴行、ロッテからFA宣言した橋本将、ロッテから金銭トレードで早川大輔、日本ハムを自由契約となったターメル・スレッジ、新外国人として王溢正、クリス・ブーチェック、ホセ・カスティーヨを獲得。
尾花監督時代[編集]
- 2010年
- シーズンスローガン:「FULL SEASON FULL POWER. Analyzing Baseball」
監督代行だった田代富雄が湘南シーレックス監督に復帰。当初の構想では前年途中から抑えを務めた山口俊を先発に転向させ、抑えに起用する予定だったブーチェックがオープン戦で成績を残せなかったことから、開幕直前に山口が抑えに再び戻った。また、三浦大輔が開幕前のオープン戦で大乱調だったことから、急遽二軍落ちとなった。3月31日の巨人戦の勝利で順位を3位タイとし、同時に広島が単独最下位となったが、最下位からの脱出は2008年4月5日以来284試合目(725日ぶり)であり、これまでの記録(楽天、2005年4月9日 - 2007年3月24日、262試合)を大幅に更新してのストップとなった。一方、4月1日に日本ハムから石井裕也とのトレードで江尻慎太郎を獲得。4月7日にキンタナロー・タイガースに入団していた大家友和が12年ぶりに復帰。4月20日にソフトバンクから吉川輝昭とのトレードで井手正太郎を獲得。しかし、5月9日に吉見祐治が金銭トレードでロッテに移籍。開幕当初の構想から外れた戦いを強いられたため、交流戦以降は低迷し、最下位に転落した。また、6月に新外国人としてブレット・ハーパーを獲得。1度も浮上することなく、9月7日の対巨人戦、25日の対中日戦に敗れ、5年連続Bクラスと3年連続最下位が確定し、28日の対ヤクルト戦、10月6日の対阪神戦に敗れ、プロ野球史上初の3年連続90敗と130試合制だった1955年以来55年ぶりのシーズン95敗を喫した。前述の構想から外れた戦いを強いられたことや、エース三浦がシーズンでも成績を残すことができなかったことが要因である。
8月にはオフをもって二軍の「湘南シーレックス」の名称を一軍と同じ「横浜ベイスターズ」に戻すことがプロ野球実行委員会で承認された。
9月10日に佐伯貴弘が自由契約となった(中日に移籍)。9月27日に田代湘南シーレックス監督が退団。10月2日に森笠繁、6日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に木塚敦志が現役を引退した。
9月30日、TBSホールディングスが保有している横浜ベイスターズの株式を住生活グループ(現・LIXILグループ)との間で売却交渉を進めている旨がメディアで報じられ[36]、10月5日になって住生活グループ幹部がTBSホールディングスとの交渉の事実を認めた。球団も10月4日に若林オーナー(東京放送副社長)が交渉に関し「大筋で合意しており、10月中に正式決定」とコメントしていた[37]が、実際の交渉は難航。結局、10月27日にTBSホールディングスが住生活グループとの交渉を打ち切り、2011年度も球団を保有することを発表するに至った[38]。交渉決裂の理由としてはTBSホールディングスおよび住生活グループそれぞれが「条件面での不一致」としている[39]ものの、翌28日に加地隆雄球団社長は秋季練習中の選手らへの事情説明に際して「一番大きな問題はフランチャイズ。横浜から出て、新潟、草薙(静岡)、京都と違うところでやりたいと(住生活側は)主張し続けていた」と明らかにし[40]、潮田洋一郎住生活グループ会長も「それを含めていろいろあった。(球団運営など)すべてをゼロからやりたかったが、ゼロからできなかった。」と理由を述べた[41]。
オフにヘッドコーチの島田誠が不振の責任を取って1年で辞任。ランドルフら外国人選手3人が退団した。オリックスから桑原謙太朗、野中信吾、高宮和也、寺原隼人との計4対3トレードで一輝、山本省吾、喜田剛、新外国人としてクレイトン・ハミルトン、ブランドン・マン、ブレント・リーチ、陳冠宇、東北楽天ゴールデンイーグルスから金銭トレードで渡辺直人、日本ハムからFA宣言した森本稀哲、西武から坂元弥太郎とのトレードで大沼幸二を獲得。内川聖一がソフトバンクにFA移籍。
- 2011年
- シーズンスローガン:「FULL SEASON FULL POWER」
3月11日、横浜スタジアムでヤクルトとのオープン戦を行っていた最中に東日本大震災が発生。球場全体が揺れて試合は打ち切りとなり、選手や観客がグラウンドに避難している[42]。また、4月1日にリーチがNPB史上初の制限選手となった。当初は3月25日に公式戦の開幕が予定されていたが、震災の影響で4月12日に延期された。2007年以来4年ぶりに本拠地での開幕となった中日との3連戦で2000年以来11年ぶりとなる開幕カード勝ち越しを決めた。一方、4月25日に前年オフに退団したランドルフが復帰。しかし、5月以降は低迷状態に陥る一方で、23日に新外国人としてルイス・ゴンザレス、元楽天の中村紀洋を獲得。交流戦ではロードで1勝(9敗2分)しかできず、7勝13敗の11位に終わる[43]。さらに、6月28日にランドルフが解雇されたことで、7月にリーチを支配下選手に復帰させたが、またしても一度も連勝できないまま[44]オールスターまでの前半戦を25勝44敗6分、借金19で折り返す[45]。後半戦では7月29日に国吉佑樹を支配下選手に登録させたが、1度も浮上することなく、9月27日の対巨人戦(横浜)、10月9日の対阪神戦(横浜)に敗れ、6年連続Bクラスと4年連続最下位が確定した[46][47]。最終的には47勝86敗11分で首位中日とは27.5ゲーム差、5位の広島とは11.5ゲーム差がついた[48]。10月18日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に早川大輔が現役を引退した。チーム防御率は2005年以来6年ぶりの3点台だったものの、2年連続最下位、勝率も1957年から1961年の近鉄以来50年ぶりの4年連続で3割台と低迷し[49]、個人タイトル・ベストナイン・ゴールデングラブ賞・月間MVPが2年連続で0件に終わった。
10月19日、TBSホールディングスが保有している横浜ベイスターズ株の大半をディー・エヌ・エー(DeNA)に譲渡することで、大筋合意がなされたことが報道[50]され、22日の最終戦終了後、監督の尾花と6人のコーチ陣が休養に入り[51]、11月4日、TBSホールディングスが所有する株式の一部(TBSホールディングスの保有する640,000株(議決権割合 49.23%)およびBS-TBSの保有する230,000株(議決権割合 17.69%))を12月2日付で(NPB実行委員会およびオーナー会議の承認を得ることを条件として)ディー・エヌ・エー(DeNA)に譲渡することで、両社の間で正式合意(取得価格1株あたり7,471円、総額65億円)[52]。11月22日、監督の尾花と6人のコーチ陣が解任[53]。12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてディー・エヌ・エー(DeNA)による横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認された[54]。
オフに杉原洋、稲田直人、松山傑、リーチら外国人選手3人が自由契約となり、ゴンザレスが解雇された。西武から武山真吾とのトレードで後藤武敏を獲得。喜田剛が戦力外通告を受け、その後現役を引退した。
この年までに入団した現役選手は筒香嘉智、梶谷隆幸(巨人)、田中健二朗(くふうハヤテ)、国吉佑樹(ロッテ)の4人。筒香はMLBへの移籍を経て復帰したのに対して、梶谷と田中と国吉は他球団に移籍しているため、横浜ベイスターズ時代からの生え抜き選手は1人もいない。
横浜DeNAベイスターズ時代[編集]
2011年12月2日、球団株式が譲渡され、商号変更により、「横浜DeNAベイスターズ」として新たにスタートを切った。球団GMには巨人OBの高田繁が就任したが、一方で監督人事は難航。当初は新庄剛志や工藤公康らの名が候補に挙がり、最終的には横浜OBでもある工藤公康が候補とされたが、一軍ヘッドコーチ・一軍投手コーチ・二軍監督などの人事を巡って工藤と球団が対立し、12月5日に高田GMが破談になったことを会見で述べ、6日に当初からの候補であった中畑清の名前が挙がり、9日に監督就任会見が行われ、合わせて新球団ロゴマークも発表された[55]。
戦力面では村田修一が巨人にFA移籍。巨人を退団したアレックス・ラミレス、他球団からFAで4年ぶりに復帰した鶴岡一成と小池正晃の両名、日本ハムを自由契約となった菊地和正と林昌範の両名、広島を自由契約となったジオ・アルバラード、巨人にFA移籍した村田の人的補償として藤井秀悟、新外国人としてオスカー・サラサーを獲得。真田裕貴が自由契約となった(巨人に移籍)。
2012年1月29日、クイーンズスクエア横浜「クイーンズサークル」において、「新ユニフォーム発表セレモニー」を行い、3月18日、これまでの球団マスコットだったホッシー・ホッシーナ・ホッシーゾの卒業と新マスコット・DBスターマンの就任を発表。
親会社および球団名変更に伴い、ユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。
中畑監督時代[編集]
- 2012年
- シーズンスローガン:「熱いぜ!横浜DeNA」
3月30日、阪神との開幕戦(京セラドーム)は5対5で引き分けとし[56]、4月1日の開幕第3戦に6対2で勝利して球団名変更後初白星を挙げるも[57]、続く4月4日から10日、22日から5月1日にかけて2度に渡り、6連敗するなどした。一方、6月8日に元楽天のランディ・ルイーズを獲得。交流戦は9勝14敗で10位に終わる。しかし、6月22日にハミルトンが契約解除となった。また、6月24日に楽天から藤田一也とのトレードで内村賢介を獲得(ドラフト育成選手では球団初の単独のトレード)。その後、6月25日に大沼幸二が現役を引退した。さらに、7月4日に新外国人としてボビー・クレイマーを獲得。7月6日の対中日戦に敗れ、借金20となり、自力優勝が消滅した[58]。前半戦最後の3連戦の対ヤクルト戦(横浜)で今季初めて同一カード3連勝をしたものの[59]、前半戦を最下位で終える。9月15日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ、7年連続Bクラス、29日の対巨人戦(横浜)に勝利して今季初の5連勝(2分含む)を記録するも[60]、30日の対中日戦(横浜)に敗れ、5年連続最下位が確定し[61]、10月7日の対巨人戦(東京ドーム)でサヨナラ負けを喫したことで、対巨人戦のロードでは1勝も出来ずに終わり[注釈 22]、東京ドームにおいて、セ・リーグ初の記録となった[62]。最終的には首位巨人とは41ゲーム差、5位の阪神にも9.5ゲーム差をつけられてしまい、セ・リーグ5球団に負け越した[63]。10月8日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に新沼慎二が現役を引退した。
オフに大原淳也、福山博之、清水直行、ブランドンら外国人選手5人が自由契約となった。日本ハムから北篤とのトレードで土屋健二、ソフトバンクから江尻慎太郎、山本省吾、吉村裕基との3対3トレードで多村仁志(7年ぶりに復帰[64])、吉川輝昭(3年ぶりに復帰)、神内靖、中日を自由契約となったトニ・ブランコ、エンジェルベルト・ソト、ホルヘ・ソーサ[65]、新外国人としてナイジャー・モーガンを獲得。阪神を自由契約となった鄭凱文、新外国人としてケビン・モスカテルと育成契約を結んだ。
- 2013年
- シーズンスローガン:「勝」
2月26日に鄭凱文を支配下選手に昇格させた。しかし、5月29日に王溢正が契約解除となり(Lamigoモンキーズに復帰)、6月4日に新外国人としてティム・コーコランを獲得。交流戦は7勝17敗で最下位に終わる[66]。一方、7月7日に西武から渡辺直人とのトレードで長田秀一郎を獲得。9月24日の対阪神戦(甲子園)に1対6で敗れ、球団史上初のクライマックスシリーズ出場の可能性が消滅し、8年連続Bクラスが確定したが、10月1日にヤクルトが巨人に敗れたことで、2007年以来6年ぶりの最下位脱出が決まり[67]、最終的には1996年以来17年ぶりの5位が確定した。ヤクルト、阪神、中日を相手に勝ち越しが決まったが、セ・リーグ3球団に勝ち越したのは2001年以来実に12年ぶりのことであった[68]。篠原貴行、小池正晃が現役を引退した。
オフにラミレス、森本稀哲、鄭凱文とコーコランの両外国人選手が自由契約となり、モーガンが退団した。中日を自由契約となった柳田殖生、日本ハムから佐藤祥万とのトレードで加藤政義、阪神からFA宣言した久保康友、オリックスを退団したアーロム・バルディリス、コロラド・ロッキーズを自由契約となった高橋尚成、新外国人としてギジェルモ・モスコーソを獲得。FA入団した久保の人的補償として鶴岡一成が阪神に移籍。嶋村一輝が戦力外通告を受け、その後現役を引退した。
楽天が球団創設初のリーグ優勝・日本一になったことにより、DeNAは現存12球団の中で広島、ヤクルト、オリックスと共に「新設球団にリーグ優勝・日本一を先にされた球団」となった[注釈 23]。
- 2014年
- シーズンスローガン:「心」
3・4月は7勝18敗、勝率.280[70]と開幕ダッシュに失敗してしまったものの、4月27日に萬谷康平を支配下選手に登録させ、5月13日にキューバから大砲のユリエスキ・グリエルを獲得。5月に井納翔一、6月に山口俊(9月にも獲得[71])、8月に三浦大輔と球団史上初めて1シーズン3度(最終的には1シーズン4度)の月間MVPを獲得し、5月から8月にかけて勝率を5割以上キープ。5月終了時点で首位広島に9.5ゲーム差、6月終了時点で首位巨人に11ゲーム差の最下位。しかし、7月以降は最下位から脱出し、9月までに球団史上初のクライマックスシリーズ出場の可能性を残していたものの、勝負の同月に失速し、27日にAクラス入りの可能性が消滅し[72]、10月6日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ、9年連続Bクラスと2年連続5位が確定した[73]。モスカテルが現役を引退した。ドラフトでは後に「小さな大魔神」と呼ばれるようになる山﨑康晃(亜細亜大学)を1位指名。
オフに藤江均、菊地和正、ソーサら外国人選手4人が自由契約となった(菊地とソトは群馬ダイヤモンドペガサス、藤江は楽天、陳冠宇はロッテ、ブランコはオリックスに移籍)。金城龍彦が巨人にFA移籍。オリックスを自由契約となった東野峻、ソフトバンクを自由契約となった岡島秀樹、巨人を自由契約となったホセ・ロペス、新外国人としてヨスラン・エレラ、キューバからグリエルの弟のグリエルJr.を獲得。中村紀洋、藤井秀悟、神内靖が戦力外通告を受け、3人ともその後現役を引退した。
- 2015年
- シーズンスローガン:「導 TO THE GLORY TOGETHER」
1月16日に球団オーナーが春田真からディー・エヌ・エー(DeNA)の創業者でもある南場智子に交代したことを発表、NPB初の女性球団オーナーが誕生した[74][75]。また、ユニフォームも濃紺から青色(通称:横浜ブルー)に変わった。
4月9日、対阪神戦(甲子園)で勝利し、前日まで同率首位だった中日が敗れたため、12試合消化時点で単独首位となる。10試合以上消化後の単独首位は横浜ベイスターズ時代の2007年5月3日以来約8年、2898日ぶり、ディー・エヌ・エー(DeNA)が親会社となってからは初の単独首位につく[76]など、序盤は好調な滑り出しを見せた。一方、6月7日に砂田毅樹を支配下選手に登録させた。しかし、交流戦では全6カードを全て負け越し[77]、球団では2008年以来の10連敗(1引き分け挟む)を喫するなど、3勝14敗1分で12球団中最下位。勝率・176は交流戦歴代ワースト記録[78]。交流戦後の広島3連戦(3戦目は雨で中止)でも連敗は止まらず、連敗を「12」に伸ばしてしまう[79]。しかし、6月23日の巨人戦に7-2で勝利し、連敗を12で止めた[80]。交流戦後の混戦の中、6月・7月と阪神や巨人の後塵を拝することが多かったが、前半戦最後のカードである対巨人3連戦で3連勝し、巨人から首位を奪還。一方、7月3日に新外国人としてデュアン・ビロウを獲得。前回優勝の1998年以来となる前半戦首位ターンとなった[81]。しかし、後半戦に入ると、徐々に順位を下げ、8月下旬にはとうとう最下位に転落。終盤は中日との最下位争いとなり、9月3日の中日戦に敗れ、自力での球団史上初のクライマックスシリーズ出場の可能性が消滅し[82]、10月3日にシーズン最終戦(巨人戦)で敗れ、10年連続Bクラスと2012年以来3年ぶりの最下位が確定した[83]。前半戦を首位で折り返しながらシーズンを最下位で終えるのは球団史上初(2期制時のパは除く)の記録となった[83]。本塁打数はリーグ最多の112、得点はリーグ2位の508だった[84]ものの、チーム防御率3.80、総失点598はリーグワーストだった[85]。黒羽根利規、髙城俊人、嶺井博希を起用するなど、固定できなかった捕手陣は11捕逸[86]と1990年のロッテオリオンズの日本プロ野球タイに並ぶ68暴投を記録した[85]。また、明治神宮球場では三浦大輔が登板した2試合の2勝しかできなかった。観客動員数は好調で、球団側は監督契約延長を申し出たが、中畑は低迷の責任を取る形で退任。これにより、4年間に及ぶ中畑政権は幕を閉じた[87]。後任に球団史上初の外国人監督となるラミレスが就任[88]。
10月21日、ラミレスの新監督就任が正式に発表された[89]。合わせて、2年契約で背番号80に決まったことも発表[90]。ドラフトでは即戦力として期待された左投手の今永昇太(駒澤大学)を1位指名。課題であった捕手にも戸柱恭孝(NTT西日本)を迎えた。
オフに多村仁志、東野峻、土屋健二、加藤政義、岡島秀樹、ビロウとバルディリスの両外国人選手が自由契約となった(バルディリスはサムスン・ライオンズ、多村は中日、東野と土屋と加藤は現役を引退)。新外国人としてジェイミー・ロマック、ザック・ペトリック、巨人を自由契約となった久保裕也、ソフトバンクとの育成契約を拒否した白根尚貴を支配下選手として獲得。
この年で暗黒時代は一応終わり、リーグ最下位も令和時代では2021年に三浦大輔が二軍監督から監督に昇格する形で就任するまでない。
ラミレス監督時代[編集]
- 2016年
- シーズンスローガン:「WE PLAY TO WIN」
前年11月に開始されていた本拠地である横浜スタジアムの運営会社・株式会社横浜スタジアムの友好的TOBが一段落し、1月20日付で横浜スタジアム運営会社の株式を議決権所有割合の過半数(71.12%)に該当する普通株を総額74億2,500万円で取得した。このため、運営会社は1月28日付で名義を横浜DeNAベイスターズの子会社(DeNAの孫会社)に変更。
キャンプ中から開幕前にかけて故障者が続発した。山崎憲晴が左膝靱帯断裂で今季絶望となったほか、石川雄洋、山口俊、梶谷隆幸が故障により、開幕に間に合わず、3・4月は投打にわたり、戦力不足で9勝18敗と大きく負け越し、開幕直後に日本ハムから金銭トレードで藤岡好明、広島を自由契約となったマイク・ザガースキーを獲得したが、5月に入ると、怪我で離脱していた梶谷ら主力選手も戻り、15日に新外国人としてエリアン・エレラを獲得。その後、石田健大、今永昇太が揃って月間4戦全勝(石田は26イニング連続無失点を記録し、月間MVPを獲得)と活躍するなど、3日時点で11あった負け越しを28日に完済した。交流戦は負け越したものの、7月11日に三浦大輔が世界記録となるプロ野球投手としての24年連続安打を達成(ギネス世界記録に認定され、8月22日、横浜スタジアムで認定証が授与)するなど、勢いを取り戻し、1999年以来17年ぶりとなる2年連続の前半戦Aクラスターンを決めた。一方、7月14日に新外国人としてマイク・ブロードウェイを獲得。7月19日から22日にかけて筒香嘉智が月間16本塁打の歴代日本人最多記録、月間6度の複数本塁打と3戦連続複数本塁打という2つのプロ野球記録を樹立するなど、大爆発した。後半戦は8月25日に4位阪神に0.5差まで詰められるも、最後までAクラスを守り抜き、9月19日、広島との最終戦にて勝利し、2005年以来11年ぶりのAクラスと3位が確定し、球団史上初のクライマックスシリーズ出場を決めた。最終結果は69勝71敗3分。投手陣ではルーキーの今永、2年目の石田が先発ローテーションに入り、野手陣では筒香嘉智が本塁打王と打点王のタイトルを獲得。桑原、倉本がレギュラーに定着するなど、若手の台頭が目立った。シーズン最終戦となる9月29日に横浜スタジアムで行われた引退試合を最後に三浦大輔が現役を引退した。ドラフトでは1位で濱口遥大の単独指名に成功。9位に佐野恵太を指名し、これが大化けへと繋がってゆく。
クライマックスシリーズでは2位巨人と対戦し、2勝1敗でファイナルステージ出場を決め、1位広島と対戦し、第3戦で借金チーム初のファイナルステージでの勝利を挙げたものの、1勝4敗で敗退した。これにより、クライマックスシリーズ制度導入後10年目にして全球団がクライマックスシリーズに出場する[91]と共にセ・リーグ全球団がクライマックスシリーズに出場し、クライマックスシリーズファイナルステージまで進んだ。
オフに井手正太郎、内村賢介、長田秀一郎、柳田殖生、久保裕也、エレラら外国人選手6人が自由契約となった(ロマックはサンディエゴ・パドレス、ブロードウェイはワシントン・ナショナルズ、ペトリックはサムスン・ライオンズ、久保は楽天、ザガースキーはデトロイト・タイガース、長田は新潟アルビレックスBC、モスコーソはレオン・ブラボーズに移籍、井手と柳田は現役を引退)。山口俊が巨人にFA移籍。新外国人としてアウディ・シリアコ、ジョー・ウィーランド、スペンサー・パットン、フィル・クライン、ヤクルトを自由契約となった田中浩康、巨人にFA移籍した山口の人的補償として平良拳太郎を獲得。
- 2017年
- シーズンスローガン:「THIS IS MY ERA.」
- 新スローガン:「OUR TIME IS N.O.W.」
5月30日の交流戦初戦で3位に浮上[92]。一方、7月6日に日本ハムから黒羽根利規とのトレードでE.エスコバーを獲得。8月22日から24日の対広島3連戦。22日の第1戦は9回裏2対5の劣勢から筒香嘉智(2ラン)、ロペス、宮﨑敏郎の3者連続本塁打でサヨナラ勝利。本塁打3連発のサヨナラゲームはプロ野球史上初の事であった。翌23日も5-6で迎えた9回裏二死からのロペスのソロ本塁打で同点にし延長戦に突入、10回裏に梶谷隆幸のサヨナラタイムリーで連勝。24日の第3戦は9回、二死二塁から倉本寿彦の詰まった打球がイレギュラーバウンドを生みサヨナラ勝ち。同一カード全てリードされている状況からの逆転サヨナラでスイープを達成した。3試合連続サヨナラ勝利はベイスターズ前身のホエールズが1960年に達成して以来57年ぶり、同一カードとしては史上初である[93]。9月に入り、巨人が持ち直してきたため、巨人との間で激しい3位争いとなり、順位が入れ替わることもあった。その最中、26日に高崎健太郎、大原慎司が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。10月1日の対広島戦で勝利し、2年連続3位が確定した[94]。73勝65敗5分で公式戦を終え、2001年以来16年ぶりの勝ち越しを決めた。今永、濱口、ウィーランドの3人が二桁勝利を挙げ、宮﨑は首位打者、ロペスは最多安打と打点王のタイトルを獲得した。
クライマックスシリーズではファーストステージで2位阪神と対戦し、2戦目は大雨で異例のコンディションの中、泥試合と称される戦いに勝利し、その勢いで2勝1敗で阪神を破り、ファイナルステージで第1戦を落とした後に4連勝し、4勝2敗(広島へのアドバンテージ1敗含む)で広島を破り、セ・リーグ初の3位からの日本シリーズ進出を決めた。これにより、セ・リーグでは2010年代でクライマックスシリーズ制度導入後11年目にして全球団が日本シリーズに出場した。
ソフトバンクとの日本シリーズでは3連敗で王手をかけられた後、2連勝するが、6戦目でサヨナラ負けを喫し、前身を含め、3度目となる日本シリーズで初めて敗退し、日本一を逃した。
オフに山崎憲晴、久保康友、クラインら外国人選手3人が自由契約となった(山崎は阪神、シリアコはサセックスカウンティー・マイナーズ、久保はゲーリー・サウスショア・レイルキャッツ、エリアンはメキシコシティ・レッドデビルズに移籍)。元ソフトバンクのE.バリオス、新外国人としてN.ソト、中日を自由契約となった武藤祐太、楽天を自由契約となった中川大志、補強の目玉として阪神からFA宣言した大和を獲得。FA入団した大和の人的補償として尾仲祐哉が阪神に移籍。下園辰哉、小杉陽太、林昌範が戦力外通告を受け、3人ともその後現役を引退した。
- 2018年
- シーズンスローガン:「VICTORY is within US.」
- 新スローガン:「VICTORY is within US. 熱く、熱く、立ち上がる。」
横浜ベイスターズ時代の2011年以来球団がDeNAになってからは初めて本拠地での開幕を迎えた。開幕投手は2年連続で石田健大が務めたが、試合は3-7で敗れ[95]、5試合で1勝4敗と波に乗れずにいたが、4月6日から8日の対広島3連戦で今季初のカード勝ち越し、続く対巨人3連戦を3連勝し、4月13日の対中日1回戦で逆転勝利を収め、単独首位に浮上すると[96]、4月7日から15日にかけて2001年以来17年ぶりとなる8連勝を記録した。しかし、ここから急降下し、7月4日に元ロッテの中後悠平、9日にオリックスから髙城俊人、白崎浩之との2対2トレードで伊藤光、赤間謙を獲得。7月18日にオーストラリアン・ベースボールリーグのキャンベラ・キャバルリーと戦略的パートナシップを締結したことを発表した[97]。8月までに2か月連続で負け越し、最下位に沈む。9月に13勝8敗と持ち直したが、ラミレス政権では初のBクラスと4位に終わった。山﨑が初の最多セーブ、ソトは本塁打王のタイトルを獲得。加賀繁、後藤武敏が現役を引退した。
オフに荒波翔、ウィーランドが自由契約となった(荒波はモンテレイ・サルタンズ、ウィーランドは起亜タイガースに移籍)。巨人を自由契約となった中井大介を獲得。かつてチームに所属していた古村徹が4年ぶりに復帰。白根尚貴、田中浩康が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。
この年は平成最後のペナントレースだったので、DeNAは現存12球団の中でロッテと共に「平成時代に1度もリーグ優勝を本拠地で飾れず、またクライマックスシリーズ1位通過を決められなかった球団」となった[注釈 24]。
- 2019年
- シーズンスローガン:「Go Beyond the Limit.」
- 新スローガン:「一生残る、一瞬のために。 FOR THE MOMENT THAT WILL LAST A LIFETIME.」
球団創設70周年を記念し、この年[注釈 25]限定の球団プライマリーロゴが登場した。従来使用されていた星マークの上部に「70th」の文字が入り、マークの上に巻きついていたリボンが外される。中央には「YOKOHAMA DeNA BAYSTARS」、マークの下に巻きついたリボンには「Since 1949 SHIMONOSEKI」の文字が入る[注釈 26]。
チーム生え抜きで10年間一・二軍(2000年から2010年は湘南シーレックス)打撃コーチ、4年間湘南シーレックス監督(2009年は横浜ベイスターズの監督代行)を務めた田代富雄がチーフ打撃コーチとして復帰した。
1月にアレックス・ラミレス監督の日本国籍取得が認められた。3月14日、アリゾナ・ダイヤモンドバックスと業務提携を締結した。
3月26日に楽天から熊原健人とのトレードで濱矢廣大を獲得。4月に2015年以来4年ぶりの10連敗を喫したが、その後は復調。5月30日の中日戦に勝利したことで、最下位から脱出する。一方、翌31日に新外国人としてS.ソリスを獲得。オールスター前には首位巨人と9.5ゲーム差の2位で折り返し、一時は首位巨人との差を0.5ゲーム差まで縮める猛追を見せたが、直接対決で敗れたことが響き、結局1度も首位に立つことなく、優勝を逃した。それでも9月24日の中日戦に勝利したことで、1997年以来22年ぶりの2位が確定し、本拠地初となるクライマックスシリーズ開催を決めた。これにより、NPB全球団が本拠地でクライマックスシリーズを開催した。2位以上でシーズンを終えたのは優勝した1998年以来21年ぶり。
クライマックスシリーズではファーストステージで3位阪神と対戦するも、第1戦で6点差から逆転負けしたこともあり、1勝2敗で球団初のファーストステージ敗退となった。
N.ソトが43本塁打を放ち、2年連続の本塁打王と打点王を獲得した。
オフに筒香嘉智がポスティングシステムを利用しての大リーグ挑戦を正式に発表した[98]。E.バリオスとS.ソリスの両外国人選手が自由契約となり(E.バリオスはメキシコシティ・レッドデビルズ、S.ソリスは2021年シーズン途中、モンクローバ・スティーラーズに移籍)、田中健二朗が肘の負傷を理由に戦力外として育成契約を結んだ。新外国人としてとしてM.ピープルズ、T.オースティンを獲得、その後Y.ディアスと育成契約を結んだ。オリックスを自由契約となった髙城俊人が1年半ぶりに復帰。
- 2020年
- シーズンスローガン:「NEW GENERATION IS HERE.」
1月25日、佐野が筒香のポスティングシステムでのタンパベイ・レイズへの移籍に伴い、空席となっていたキャプテンに就任することが発表された[99]。
春季キャンプでは過去にMLBでゴールドグラブ賞を11度受賞した守備の名手であるオマー・ビスケルを特別コーチとして招聘し[100][101]、戦略的パートナーシップを締結しているアリゾナ・ダイヤモンドバックスよりバリー・エンライト[注釈 27]とブレイク・ラリー[注釈 28]がコーチ研修目的で参加し[102]、キャンベラ・キャバルリーよりジョッシュ・ワーナーとスティーブン・チェンバースが2月6日から2月14日の期間限定で練習参加することを受け入れた[103]。
新型コロナウイルス感染症によるパンデミックにより、3月に開幕予定だった公式戦は3か月遅れの6月19日に開幕した。プロ野球公式戦史上初の無観客での開幕だった。
開幕後は今永とオースティンが故障で投打の主力の離脱が相次いだほか、ロペスとソトの両外国人選手の不調があるも、佐野らの活躍でしばらくはAクラスに留まった。しかし、9月の初旬に5.5ゲーム差で迎えた首位・巨人との3連戦で3連敗したのが響き、優勝戦線から脱落。その後は阪神、中日とAクラス争いになる。10月以降、ナゴヤドームで6連敗を喫するなど(結果的に7月14日の勝利以降11連敗)、負けが込み、11日の阪神戦に敗れ、4位に転落以降はBクラスから抜け出せず、25日に球団からラミレスの退任が発表され、11月5日の中日戦に敗れ、2018年以来2年ぶりのBクラスが確定し、11日に広島が中日に負けたため、4位でシーズンを終えた。シーズン最終戦そしてラミレス政権最後の試合で巨人を相手に逆転サヨナラ勝ちをして有終の美を飾った。この勝利によって、巨人戦6連勝を記録し、リーグで12勝12敗と唯一負け越すことなく、巨人の完全優勝を阻止した。また、佐野がレギュラー1年目で首位打者を獲得するなど、明るい話題もあった。これにより、5年間に及ぶラミレス政権は幕を閉じた。後任に二軍監督の三浦大輔が昇格する形で就任。
11月17日、三浦の新監督就任が正式に発表された。
オフにロペスとパットン(テキサス・レンジャーズに移籍)の両外国人選手が退団し、赤間謙、石川雄洋が戦力外通告を受け、2人ともその後現役を引退した。梶谷隆幸と井納翔一の両名が巨人にFA移籍。ヤクルトを自由契約となった風張蓮、巨人にFA移籍した梶谷の人的補償として田中俊太、新外国人としてF.ロメロを獲得したと同時にK.シャッケルフォード、巨人を自由契約となった宮國椋丞と育成契約を結んだ。
三浦監督時代[編集]
- 2021年
- シーズンスローガン:「横浜一心」
田代チーフ打撃コーチが巡回打撃コーチに配置転換された。
新型コロナウイルス感染症の影響で外国人選手が12球団で唯一全員来日できず[104]、戦力が揃ったのは4月15日のことであり、3、4月は2引き分けを挟んで10連敗を含む[105]6勝21敗4分と大きく負け越した[106]。一方、4月23日にK.シャッケルフォードを支配下選手に昇格させた。また、6月14日にロッテから国吉佑樹とのトレードで有吉優樹を獲得、その後15日に田中健二朗を支配下選手に復帰させた。さらに、8月30日に宮國椋丞を支配下選手に昇格させた。打撃陣は打率3割を記録した選手を4人(牧秀悟、桑原、佐野、宮﨑)輩出したほか、チーム本塁打136本、チーム得点559点はいずれもリーグ2位だった[107]が、7連敗以上を2度記録したこともあり、また勝利数が最も多かった大貫晋一でさえ6勝止まりと成績を大幅に落とし、2年連続Bクラスと2015年以来6年ぶりの最下位が確定した[108]。牧は1年目ながら数々の新人記録を打ち立てる活躍を見せ、新人特別賞を受賞した。
オフに坪井打撃コーチ、川村投手コーチ、新沼バッテリーコーチ、牛田・藤岡両二軍投手コーチなど、コーチ陣が退団した。風張蓮、M.ピープルズとK.シャッケルフォードの両外国人選手が自由契約となり(風張はケンタッキー・ワイルドヘルス・ゲノムスに移籍、M.ピープルズは再契約、K.シャッケルフォードは退団)、平良拳太郎が肘の負傷を理由に、勝又温史が戦力外として育成契約を結んだ。楽天を自由契約となった藤田一也が10年ぶりに復帰[109]。新外国人としてB.クリスキー、日本ハムを自由契約となった大田泰示を獲得。
オリックスが1996年以来25年ぶり、近鉄との球団合併後初のリーグ優勝を果たしたことにより、DeNAは現存12球団の中でロッテと共に「合併球団にリーグ優勝を先にされた球団」となった。
- 2022年
- シーズンスローガン:「横浜反撃」
嶋村打撃コーチが二軍打撃コーチ、藤田ブルペン担当バッテリーコーチが二軍育成コーチに配置転換されたことで、前年よりコーチ陣が大幅に刷新され、前年から一軍で留任したコーチは青山・小池両コーチで、内野守備走塁コーチが永池から田中浩に変わり、チーム生え抜きで2年間湘南シーレックスコーチを務めた鈴木尚典が打撃コーチとして復帰し[110]、チーム生え抜きの斎藤隆がチーフ投手コーチ[110]、チーム生え抜きの石井琢朗が野手総合コーチ[111]、チーム生え抜きの相川亮二がバッテリーコーチ[112]に就任した。斎藤ら3コーチはこれが現役以来の球団復帰となった。
今永、N.ソトとT.オースティンの両外国人選手が春季キャンプ中に故障して開幕から出遅れ、4月6日にはチームに新型コロナウイルスの陽性者が続出したことから、翌7日から10日までの4試合を中止し、12日からは総勢22人の選手を入れ替え、一軍の試合を再開した。4・5月は最大借金9と下位に落ち込むも、交流戦以降はチーム成績も安定し、今永が6月7日の日本ハム戦(札幌ドーム)で球団としては1970年の鬼頭洋以来52年ぶり4人目となるノーヒットノーラン達成。特に投手面では大きく改善し、今永が防御率でリーグ3位に入って11勝、大貫晋一も11勝を挙げ、伊勢大夢、E.エスコバー、そこから割って入る入江大生、田中健二朗の勝ちパターンの確立が大きかった。一方、7月16日に新外国人としてR.ガゼルマン(翌々18日にM.ピープルズが再び退団)、28日に楽天から伊藤裕季也とのトレードで森原康平を獲得。その後、7月30日に平良拳太郎を支配下選手に復帰させ、宮城滝太を支配下選手に登録させた。8月に入ると、21日の広島戦まで横浜スタジアムで開催された試合で連勝を続け、プロ野球史上3球団目となる球団新記録となる本拠地17連勝、18勝6敗と球団としては1997年8月以来の月間18勝を記録し、首位ヤクルトを追う2位まで浮上したが、26日からの首位ヤクルトとの直接対決で3連敗してしまい、ゲーム差を広げられたため、首位ヤクルトとのゲーム差を詰めることはできず、ヤクルトの優勝マジックが2になった9月25日の明治神宮球場での直接対決でまさかのサヨナラ負けを喫し、優勝争いには敗れものの、2019年以来3年ぶりのAクラスと2位が確定したことで、三浦監督は球団の生え抜き監督としては初のAクラス入りを果たした。
2019年以来3年ぶりに横浜スタジアムで実現した阪神とのクライマックスシリーズファーストステージで打率3位の.306を記録した佐野が3戦で10打数1安打と不振に陥り、最後は1点ビハインドで迎えた9回1死満塁のチャンスに藤田が4-2-3のホームゲッツーで試合終了。この年は阪神に2013年以来9年ぶりの勝ち越しを決めていたが、2019年に続き、1勝2敗でファーストステージ敗退となった。
オフに三上朋也、F.ロメロとB.クリスキーの両外国人選手が自由契約となり(三上は巨人、F.ロメロはロサンゼルス・エンゼルス、B.クリスキーはカンザスシティ・ロイヤルズに移籍)、櫻井周斗が疲労骨折の再発、松本隆之介が肩の負傷を理由に戦力外として、ロッテを自由契約となった西巻賢二と育成契約を結んだ。中日から砂田毅樹とのトレードで京田陽太、新外国人としてJ.B.ウェンデルケン、T.アンバギー、T.バウアーを獲得。嶺井博希がソフトバンクにFA移籍。山下幸輝、浅田将汰、田部隼人、髙城俊人、有吉優樹が戦力外通告を受け、5人ともその後現役を引退した。
オリックスが1996年以来26年ぶり、近鉄との球団合併後初のリーグ優勝・日本一になったことにより、DeNAは現存12球団の中で阪神、広島、ロッテと共に「合併球団にリーグ優勝・日本一を先にされた球団」となった。
- 2023年
- シーズンスローガン:「横浜頂戦」
ワールド・ベースボール・クラシックでは今永と牧が日本代表、N.ソトがプエルトリコ代表に選出された。
4月8日に櫻井周斗と松本隆之介の両名を支配下選手に復帰させ、28日に西巻賢二を支配下選手に昇格させた。交流戦は全日程を終え、11勝7敗の1位タイでDeNA、巨人、オリックス、ソフトバンクの4チームが並び、初のTQB(得失点率差)で交流戦19年目にして初の優勝を飾った[113]。7月23日に上甲凌大を支配下選手に登録させ、26日にヤクルトから阪口皓亮とのトレードで西浦直亨を獲得。
10月15日にマツダスタジアムで行われた広島とのクライマックスシリーズファーストステージを最後に藤田一也が現役を引退した。しかし、前年に続き、0勝2敗でファーストステージ敗退となった。
オフに今永昇太がポスティングシステムを利用してMLBに挑戦することが承認された。平田真吾、田中健二朗、笠原祥太郎、池谷蒼大、宮國椋丞、田中俊太、T.アンバギーら外国人選手5人が自由契約となった(田中健と池谷はくふうハヤテ、笠原は台鋼ホークス、田中俊はオイシックス、E.エスコバーはシカゴ・カブス、N.ソトはロッテ、R.ガゼルマンはワシントン・ナショナルズ、T.バウアーはメキシコシティ・レッドデビルズに移籍)。勝又温史を支配下選手に復帰させ、ソフトバンクを自由契約となった森唯斗、オリックスを自由契約となった中川颯、新外国人としてR.ウィック、A.ケイ、A.ジャクソンを獲得。巨人を自由契約となった堀岡隼人、新外国人としてW.モロン、A.マルティネスと育成契約を結んだ。
12月18日、牧が来季から佐野に代わってキャプテンに就任することが発表された[114]。
オリックスが1996年以来27年ぶり、近鉄との球団合併後初のリーグ優勝を本拠地で決めたことにより、DeNAは現存12球団の中でロッテ、楽天と共に「合併球団に本拠地で決めたリーグ優勝を先にされた球団」となった[注釈 13]。
シーズンスローガン:「横浜進化」
田代巡回打撃コーチが18年ぶりに打撃コーチに配置転換され、3月29日からスコアラー兼任となった。
4月16日に筒香嘉智が5年ぶりに復帰[115]。6月8日にY.ディアスと堀岡隼人の両名を支配下選手に昇格させた。7月4日に新外国人としてM.フォードを獲得。
所属選手・監督・コーチ[編集]
チーム成績・記録[編集]
- リーグ優勝 2回
- (1960年、1998年)
- 日本一 2回
- (1960年、1998年)
- セ・パ交流戦優勝 1回
- (2023年)
- クライマックスシリーズ優勝 1回
- (2017年)
- Aクラス 20回
- (1960年、1962年、1964年、1969年 - 1971年、1979年、1983年、1990年、1997年 - 2001年[注釈 29]、2005年、2016年 - 2017年、2019年、2022年 - 2023年)
- Bクラス 54回
- (1950年 - 1959年、1961年、1963年、1965年 - 1968年、1972年 - 1978年、1980年 - 1982年、1984年 - 1989年、1991年 - 1996年、2002年 - 2004年、2006年 - 2015年、2018年、2020年 - 2021年)
- 最下位 25回
- (1954年 - 1959年、1961年、1966年[注釈 30]、1976年 - 1977年、1981年、1984年、1989年、1994年、2002年 - 2004年、2006年、2008年 - 2012年、2015年、2021年)
- 連続Aクラス入り最長記録 5年(1997年 - 2001年)
- 連続Bクラス最長記録 10年(1950年 - 1959年、2006年 - 2015年)
- 最多勝 80勝(1964年)
- 最多敗 99敗(1955年)
- 最多引分 17分(1979年)
- 最高勝率 .585(1998年)
- 最低勝率 .238(1955年)
- 最多連勝 10 (1964年、1967年、1968年、1998年、1999年)※1967年、1968年、1998年のものは引き分けを挟む。
- 最多連敗 14 (1955年、2008年)※2008年のものは1引き分け挟む。
- 最長試合時間 6時間13分(1998年8月9日対広島戦)
- 連続イニング無得点 46(2012年)
- 通算4500敗(2012年8月24日の対巨人戦で、2リーグ制発足後最速の記録)
その他の記録[編集]
- 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1964年)
- 最大ゲーム差 61.5ゲーム(1955年)
- 最多本塁打 194本(2004年)
- 最少本塁打 51本(1955年)
- 最高打率 .294(1999年)
- 最低打率 .208(1956年)
- 最高防御率 2.31(1971年)
- 最低防御率 4.94(1977年)
- ホーム連勝記録 17(2022年)
- 68暴投(2015年、ロッテオリオンズ〈1990年〉と並びプロ野球タイ記録)
チームの特徴[編集]
球団名[編集]
1993年から2011年までの間、12球団では唯一の正式名称に企業名を冠しない球団であった。1949年末の2リーグ分裂以降では他に広島カープ(1950年 - 1967年、現・広島東洋カープ)[注釈 31]、東京オリオンズ(1964年 - 1968年、現・千葉ロッテマリーンズ)の事例が存在する。
前身の大洋ホエールズと第二次世界大戦中に存在した大洋軍は名前が同じだけで、繋がりは全くない。以前の愛称「ホエールズ」は当時の親会社・大洋漁業が捕鯨を主要業務にしていたことに由来する。現在の愛称「ベイスターズ」は「横浜ベイブリッジ」と「星」とを組み合わせた造語である。なお、アメリカのプロスポーツチームの本拠地ではタンパベイ(フロリダ州)やグリーンベイ(ウィスコンシン州)のように湾を意味する“ベイ”が入っている地名があるため、一部のアメリカメディアではチーム名が「ヨコハマ・ベイスターズ」ではなく「ヨコハマベイ・スターズ」として認識されることもしばしばある。
大洋・洋松時代は略称をパ・リーグの大映スターズや後身の大毎オリオンズとの重複を避けるため「大」でなく「洋」とし、大毎が東京オリオンズとなって以降も1992年まで引き続き使用していた。
2012年以降は通称が「横浜」から「DeNA」に変更される。略称については「D」では中日ドラゴンズのアルファベット略称と紛らわしくなるため、従来通り「横」を使用することが承認されたが[116]、NPBの公式サイトでは「ディ」あるいは「デ」の表記も使用されている[117]。また、共同通信社[118]、日刊スポーツ[119]では「D」と表記している(中日は「中」)。テレビ中継では球団名を変更した2012年時点ではNHKが「D」、地元tvkが「横」、サンテレビが「ディ」、CSで全試合中継するTBSが「De」、阪神の公式映像のTigers-aiが「デ」、J SPORTSの自社制作では「DB」などと混在していたが、2015年現在ではNHK、サンテレビ、Tigers-aiも「De」の表記を使用しており、ある程度統一されつつある。
NPBの公示等で使用される英字略称は、1993年シーズンに「ベイスターズ」へ改称した時点では「Yokohama BayStars」から取った「YB」[注釈 32]であったが、2012年シーズンより「Yokohama DeNA BayStars」を略した「DB」へ変更された[116]。なお、2019年にオリックス・バファローズの英字略称がそれまでの「Bs」から「B」へ変更されたため、同年以降は唯一英字略称が2文字の球団となっている。
その他[編集]
- 球団関連会社からファンマガジン『月刊ベイスターズ』を発売(毎月25日)していた。2010年12月号を持って休刊。
- 東京放送時代まで横浜スタジアム側から、選手強化費用として毎年3億円を球団に還元していた[120]。
- 株式会社煙草屋安兵衛が展開する食料品店チェーン「ベイスターズマート(旧名:ホエールズマート)」が神奈川県内に40店ほど存在する。
マスコット[編集]
横浜DeNAベイスターズ マスコット #☆ | |
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2023年3月4日、横浜スタジアムにて | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県横浜市 |
身長 体重 | ボール5個分 cm ボール10個分(理想は5個分) kg |
選手情報 | |
ポジション | マスコット |
初出場 | 2012年3月18日(オープン戦・対ソフトバンク) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について |
横浜DeNAベイスターズ マスコット | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 非公開 |
選手情報 | |
ポジション | マスコット |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について |
横浜DeNAベイスターズ マスコット | |
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2023年3月4日 横浜スタジアムにて (後ろはチャピー) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県横浜市 |
身長 体重 | ポンポン5個分 cm ポンポン10個分 kg |
選手情報 | |
ポジション | マスコット |
初出場 | 2013年4月2日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について |
球団マスコットは、「DB.スターマン」。チームの象徴である星(スター)と“ハマ(横浜)”と“スター”にちなんだハムスターがモチーフ。ずんぐりむっくり[注釈 33]としたユニホーム姿のゆるキャラ。元は1993年からマスコットとして活躍してきた前任者のホッシーファミリーに飼われていたペット。2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでファンにお披露目された。
また、「DeNAの勝利のために、そしてスタジアムの治安を保つために、あらゆる敵と戦う」ため、球場内のスタンドや横浜公園などでファンサービスやスタジアム観戦マナーの啓蒙活動を独自に行っていたヒーロー「DB.ライダー」。球団は、これらの活動に敬意を払い、球団のシンボルマークのついた新コスチュームを贈ったうえで、球団キャラクターとして公認。2012年の本拠地最終戦である9月28日の対巨人戦でファンにお披露目された。
翌2013年には親会社の交代後初の女性マスコット「DB.キララ」が登場した。
2015年以降、ドアラを除く関東圏球団以外のマスコット交流はセ・パ交流戦とオールスター以外ではなくなっている。
- DB.スターマン(通称・スターマン)
- 年齢不詳。横浜市生まれ。ハムスター(モンスター)族で、性別は♂(オス)。チャームポイントは☆形の顔、肉球も☆形。性格は食いしん坊でおちゃめ。趣味はボール集めと「食っちゃ寝」。好きなものは丸いもの・美味しいもの・モバゲー。身長はボール5個分、体重はボール10個分(理想は5個分)。横浜スタジアム在住。背番号は「☆(1スター)」だが、2016年に限りDeNAベイスターズ5周年記念として「5☆」(数字の5の右上に小さい☆・DeNAベイスターズ5周年記念ロゴと同じ)となっていた。
- 名前の「DB.」は「DeNA BayStars」のイニシャルであると同時に「大好き・ぼくらの(Daisuki・Bokurano)」の意味も込められている[121]。ベルトには後述の「Bibon」が付いている。
- DB.ライダー
- 性別:男、年齢:非公開、血液型:非公開、身長・体重:非公開、出身地:非公開、活動場所:横浜スタジアム内、およびその周辺
- 「球場の守り神」として横浜スタジアムの内外で活動していたキャラクター。2012年8月から球場内のスタンドやコンコースなどに出没し、ファンが快適に試合を観戦できるよう自主的にパトロールを実施し、観戦マナーの啓蒙活動を続けた。この事に敬意を払い、DeNAは球団のシンボルマークのついた新コスチュームを贈ったうえで、球団キャラクターとして公認した。2016年4月6日、球団公認キャラクターとしての契約の終了を発表し、今後は再び「球場の守り神」に戻るという[122]。
- DB.キララ(通称・キララ)
- 年齢不詳。横浜市生まれ。性別は女の子。チャームポイントは大きなリボン。性格は明るくて元気いっぱい。趣味はキラキラしたもの集め。好きなものはキラキラしたもの・ポップコーン。身長はポンポン5個分、体重はポンポン10個分。背番号はなし。
- 「ベイスターズを応援するために横浜スタジアムへ通い、グラウンドやステージでキラキラ輝くdianaに憧れ、夢を叶えるために、ダンスを一生懸命練習したことで、2013年から横浜DeNAベイスターズを応援する仲間として加わることになった」という設定。スターマンから想いを寄せられているが、当の本人は全く興味が無い。
上記のほか、2014年より横浜を愛する人々を対象にプロ野球をきっかけとしたまちづくりを推進していくプロジェクトI☆YOKOHAMAを掲げ、シンボルキャラクターのBART &CHAPY(バート アンド チャピー)が誕生した。
過去[編集]
- ホエールズ時代
- クジラに乗った少年 - 川崎を本拠地にしていた時のペットマーク。グッズの他、ジャンパーやユニフォームの袖にワッペンが縫い付けられていた。
- マリン君(1978 - 1992) - 横浜に本拠地を移転した時に、ペットマークとして登場。以来、1992年までペットマークとして使用。2016年にDeNAベイスターズの5周年企画の一環として復刻[123][124][125]。なお、復刻版は帽子のマークが大洋時代の「W」からDeNAの「B」に、帽子横の「★(大洋時代のホームランシール)」が「5th(DeNAベイスターズ5周年記念マーク)」に変更されている。
- ベイスターズ時代
- ホッシーファミリー(1993 - 2012) - 球団名を「横浜ベイスターズ」と一新したことに伴い誕生。以降約20年にわたり、ベイスターズのマスコットとして活躍してきたが、2012年「横浜DeNAベイスターズ」の誕生に伴いホッシーファミリーが故郷の星に帰ることになり、ペットとして飼われていたスターマンに後を託すことで表舞台から姿を消すことになった。2012年3月18日のオープン戦・対ソフトバンクでホッシーファミリーの「卒業セレモニー」が行われた。
- ブラックホッシー - 黒いユニフォームの背中に「マスコット命」、サングラスの下に充血した目という謎のキャラクター。TBSの野球番組『好プレー珍プレー』の番組内企画で生まれたジョークマスコット。中の人(スーツアクター)は以前に阪神タイガースマスコットの「トラッキー」のアクターとして派手なパフォーマンスが人気を集めており、「流星ジャンプ」に代表されるハチャメチャなアクションで絶大な人気を得た。球団としてもグッズ製作に乗り出そうとした矢先の2004年オフ、「中の人」が東北楽天ゴールデンイーグルスの「非公認」マスコットMr.カラスコの「中の人」として引き抜かれたことで消えた。この時「ブラックホッシー獲られちゃったよ…」と肩を落とした横浜の峰岸球団社長だけでなく、佐伯貴弘(トラッキー時代から交流があり、解任直後の中の人に横浜入りを勧めたとも言われている)や三浦大輔、若林オーナーまでもが失意のコメントを残している。その後、横浜スタジアムで開催された2008年のオールスター第2戦、公式戦では2010年3月30日の本拠地開幕戦(対巨人)、4月18日の対阪神戦や6月12日の対オリックス戦(京セラドーム大阪)で復活を果たしている。また横浜スタジアム開門直後に流れる球場マナーについてのお願いのVTRにはマナーの悪いファンとして出演している。
- ニューホッシー - 正式名称は「2001年ニューホッシー」。文字どおり2001年シーズンに登場。視線が常に本人から見て左側を向いているが、これは球団公式イラストのホッシーとデザインを合わせたため。以前からのホッシーと比較して、顔が着ぐるみでない(同時に登場した湘南シーレックスのマスコット・レックの人形と同じ材質)うえに大きさも小さいため、体型がシャープで、既存ホッシーに比べると多少アクロバティックな動きもこなせる。2001年から2004年頃にかけて度々登場していたが、既存ホッシーほどの支持を得られなかったため、数年で姿を消すことになった。背番号2001。
球団のマスコットではないが、TBSが親会社の頃は、横浜スタジアムと交流戦のビジター球場ではTBSのマスコットである「BooBo(ブーブ)」とTBSラジオ『エキサイトベースボール』のマスコットである「エキベ〜」が登場した。
また、カネシゲタカシがスポナビブログで連載している漫画『ベイスたん』[126]の主人公・ベイスたんは、球団の「公認“非公式”キャラクター」として位置づけられ、球団からコラボグッズも発売されている[127][128]。
応援スタイル[編集]
トランペット・ドラム(太鼓)・選手別応援歌・ユニフォーム着用などは他球団の多くと同様だが、トランペットなどの楽器は応援には珍しい二重奏を用いている。応援メガホンの使用は他球団のファンと比較し非常に少なく、手拍子と声による応援が中心となっている。また、一部ファンにおいてゲートフラッグの掲揚が行われている。
また、2012年の親会社交代に伴い、新たな応援スタイル2種が球団側より提示された。一つは「Bibon(ビボン)」でタオルに代わり使用されるもので、専用の振りがある[注釈 34]。イベント時に随時配布される他、選手・監督名の入ったものも販売されている。もう1つは5回裏終了時やチームの勝利時「シャボン玉」を飛ばすことである。これは横浜スタジアムにおいて、当時ジェット風船の使用が禁止されていたため(理由は下記注を参照)、代替として編み出されたものであった。
- 以下は現時点(2013年以降)のもの
- 横浜主催ゲームの多く(主として本拠地・横浜スタジアム)では、試合前イベントの時間を確保する都合上スターティングメンバー発表時の応援団による応援歌演奏[注釈 35]は、球場アナウンスの選手発表(選手名コール)に続けて、各選手個別に演奏している(選手名→応援歌→選手名→応援歌の繰り返し)。このスタイルは相手チームも同様に行う。
- 得点時には「熱き星たちよ」が演奏される。
- 相手投手交代時には応援団主導のもと、タオルマフラー・フェイスタオルを広げながら布袋寅泰作の「勇者の遺伝子」を歌う。
- 代打登場時には1回だけ「代打のテーマ」が演奏される。応援歌前のファンファーレが存在する選手(大田泰示やかつて在籍したアレックス・ラミレス、佐伯貴弘、村田修一、筒香嘉智など)については、代打で登場した場合でもファンファーレが優先される。ただしコールが固有のものである選手(乙坂智など)については、固有のコールが優先される。
- 投手の打席では投手用応援歌が演奏されるが、過去には三浦大輔、斎藤隆、野村弘樹、ライアン・グリンなどに対しては専用の応援歌が演奏された。この内、野村の応援歌は新たに左投げ投手用の汎用応援歌として使われている。
- 以前はプロの作詞家・作曲家により製作され、ポップス調やロック調の編曲で収録された選手別応援歌CDが発売されており、球場でのトランペット演奏でもこれらの応援歌を用いていた。しかし、2000年頃以降に新規製作された楽曲は諸々の事情により、実際に球場で使用されることは少なくなった[注釈 36]ことから2003年を最後に制作されなくなった。2000年頃以降に応援歌が設定された選手では、応援団が新規に製作した楽曲や、過去に他の選手用として製作された応援歌[注釈 37]を流用している。
- 7回の攻撃時には、ホームでは「熱き星たちよ」の映像が流され、ビジターでは「WINNING」が応援団により演奏される。多くの球団で行われているジェット風船は2012年まで通常時は横浜スタジアムで使用禁止[注釈 38]であったため、原則として長らく使用されることはなかった。
- 2013年から「スタージェット」(球場外へ飛び出す可能性が低く、球場周辺の横浜公園の環境面やポイ捨て禁止条例遵守、近くを走る電車への影響という安全面でも優れた風船)のみ使用可能となった[129]。同年より横浜ファンも風船の使用を開始し、7回表終了後に青色の風船、勝利時には水色の風船を飛ばしたが、2015年より発売されているものには青色のみが入っており、水色のものは使われなくなった。
- ただしこの以前にも他球場において、例外的に横浜ファンが大々的にジェット風船飛ばしを行った事例がある。2006年5月27日のスカイマークスタジアムでのオリックス・バファローズ戦でスポンサーの神戸トヨペットが先着2万人に配った創立50周年記念のジェット風船を横浜ファンも飛ばしていた。2011年6月12日の札幌ドーム(当時同球場でジェット風船の使用は禁止されていたが、この試合のみ実験的に解禁。問題がなかったことが判明し、2012年シーズンより全面使用解禁)での北海道日本ハムファイターズ戦において、横浜ファンも青色のジェット風船を飛ばした。
- 2007年より試合時、初回先頭打者に対して「勝利の輝き ファンファーレ」が演奏されるようになった(初期はビジターのみ)。
- 東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地・楽天生命パーク宮城ではトランペットおよび笛の使用が禁止されているため、メロディー部の口ラッパを含め応援歌の歌唱をアカペラで行う。ヒットによる出塁や盗塁時に「いいぞ いいぞ ○○(人名)」を、四死球や野手選択など相手のミスによる出進塁時に「Let's Go Let's Go ○○(人名)」を通常の三三七拍子に変えてコールする。宮城球場以外でも、鳴り物応援を自粛する22時以降にはこの応援を行う。
- ヒットでの出塁の際はファンファーレ(三三七拍子)の後に、ヒットを打った選手の名前をスリーコールする。
- 2010年、2011年に在籍したターメル・スレッジには、交流戦でのみ日本ハム時代の応援歌と横浜での応援歌[注釈 39]を交互に演奏することがあった。
- 2010年7月に、当時在籍していた内川聖一の応援歌(過去1993年に高木豊の応援歌として製作し使用されたもの)をサビに使用した楽曲「頑張って いつだって 信じてる」が、同年5月にデビューしたアイドルグループ・東京女子流によりリリースされた。同曲は、内川本人の登場曲として、実際に球場で使用されたことがあった。
- 2016年以降、四球、ホームラン、勝利時のファンファーレに横浜市歌の一部のメロディが使用されている。
私設応援団[編集]
DeNA球団ではNPB特別応援許可を受けた以下の団体が応援を指揮する。
以下の2つの団体は、現存しない応援団である。
- 湘南海坊主 (SHONAN SEABOSE)[注釈 40]
- 横浜ベイスターズ下関ファン集いの会
チームの戦いぶり[編集]
- 1998年の日本シリーズで横浜スタジアムでの胴上げ(1960年の日本シリーズは毎日大映オリオンズの本拠地・後楽園球場)を果たしているが、リーグ優勝はいずれもビジターでの達成(1960年・1998年ともに阪神甲子園球場)である。これは2023年シーズン終了時点でリーグ優勝が1回のみの東北楽天ゴールデンイーグルス(2013年・西武ドーム)を除く現存11球団と2004年に消滅した大阪近鉄バファローズ(最後のリーグ優勝は2001年・大阪ドーム)を含む12球団唯一である。
- 2016年で広島が1991年以来から約25年ぶりに日本シリーズに進出するまでDeNAは近鉄を含む全13球団で唯一屋根付きのドームの日本シリーズを戦ったことがなかった[注釈 41]。
- 2017年終了時点で日本シリーズ出場は3回。セ・リーグ全球団では最少だが、2016年まで敗退がなく(2005年発足で敗退のない楽天を除けば)、現存11球団で最も日本シリーズの敗退が遅かった。また、試合勝率.625は出場全球団のうち、最高の記録である。2017年の日本シリーズの第3戦での黒星は日本シリーズで本拠地での初黒星となった。それまでは1度も本拠地で負けたことがなかった[注釈 42]。さらに、1958年以降からセ・パ共に6球団になってからそれ以降の13球団で唯一引き分けの有無と最終戦の有無を問わずに第7戦には出たことがない[注釈 43]。
- セ・リーグ全球団で唯一球団OB(選手としての在籍経験者)監督の下でのリーグ優勝・日本一制覇を1度も達成していない[注釈 45]。
- セ・リーグ他球団全てに対して通算対戦成績が負け越している。セ・リーグ全球団ではAクラス入り回数が最少(2019年終了時点で18回)。3シーズン連続90敗を唯一記録している球団であり(2008年 - 2010年)、他に2シーズン連続90敗を記録している(1954年 - 1955年)。2シーズン連続90敗は現存する12球団では唯一の記録である(解散球団では過去にトンボユニオンズ・高橋ユニオンズや近鉄パールス・近鉄バファローが記録)。3シーズン連続90敗はこれまで延べ5チームが喫した2シーズン連続を上回るプロ野球ワースト記録。また、この球団のシーズン90敗以上は6回。2008年から2012年まで5年連続で勝率.399以下を記録し、これは1957年から1961年までの近鉄パールス以来50年ぶりの記録である。シーズン最下位23回は、消滅した球団も含めて日本プロ野球全球団で最多。
- 2016年に2007年シーズンから導入されたクライマックスシリーズに初出場を果たしたが、これは12球団で最も遅いクライマックスシリーズ初出場であった。同年のファイナルステージ進出および2017年のクライマックスシリーズ初突破はセ・リーグでは一番遅い。また、2019年で初めてクライマックスシリーズを主催ゲームで開催したが、こちらも12球団で一番遅い。さらに、2023年に阪神タイガースがクライマックスシリーズ導入前の2005年以来18年ぶりのリーグ優勝を果たしたことにより、クライマックスシリーズを1位通過していないセ・リーグ最後の球団になっている。
- 最後にリーグ優勝をした年は横浜ベイスターズ時代の1998年で、現存12球団で最もリーグ優勝から遠ざかりかつ現在の球団名になってからリーグ優勝・日本一になっていない最後の球団になっている[注釈 46]。そのため、楽天にリーグ優勝・日本一を先にされた後、他球団は2016年に広島東洋カープ、2021年に東京ヤクルトスワローズ、2022年にオリックス・バファローズがリーグ優勝・日本一になっている[注釈 47]が、DeNAのみどちらも未だに成し遂げていない(2023年シーズン終了時点)。
- セ・リーグ全球団で唯一年間MVPに選ばれた野手が1人もいない球団である。
- 本拠地の横浜スタジアムは1978年の落成時には日本のプロ野球本拠地球場の中で両翼までの距離が最も広い球場であった。そのため、大洋時代後期の野手はスーパーカートリオに代表されるように、機動力や小技、守備力を兼ね備えたチームであり、ベイスターズに変わった1998年の優勝時も5人がゴールデングラブ賞に輝いている。しかし、他球団の本拠地球場の移転や改修による環境の変化で現在は打者有利の球場に変わっているため、21世紀以降はバントや盗塁等の小技が苦手でヒットやホームランで打ちまくる大味な攻撃スタイルに変化している。なお、投手陣は平松政次、遠藤一彦、齊藤明雄、三浦大輔といったエースを輩出しているものの、選手層の問題からチーム防御率は大洋時代から悪い。
- 親会社がDeNAになってからはチームカラーを一新し、GMに高田繁を招聘し日本ハム時代に採用した「BOS」(ベースボール・オペレーション・システム)を元にしたチーム作成、スカウトに着手している[130]。BOSについて詳しくは北海道日本ハムファイターズを参照。
営業・ファンサービス[編集]
- レフト側外野指定席の一部を対戦カード別年間指定席として発売している。2007年は三塁側内野指定席の一部についても「ビジターシート」として対戦カード別年間指定席が発売された。
- 2005年から、エグゼクディブ・アドバイザーの石橋貴明(とんねるず)[注釈 48]の意向で、横浜スタジアムの可動席前(一・三塁付近)にあったネットが撤去された。選手とファンとの距離感が縮まり、試合前や勝利時には選手とのコミュニケーションが取れるようになっている。この付近の席に人気が集中したため、2006年からFA席・FB席新設という形で事実上のチケット値上げが行われた。
- 試合前や試合中に行われるイベントの種類と回数がかなり多く、試合以外のイベントも楽しめることができる。
- 2012年から読売ジャイアンツ・東京ヤクルトスワローズとの合同で『GSDBプロジェクト』を立ち上げ、ファンクラブ会員限定イベントの実施の他該当試合の前売りチケット優先販売や球場DJ・チアチーム・マスコットキャラクターの相互訪問やファンクラブ会員に限り巨人・ヤクルト主催のDeNA戦で来場ポイントの付与を行っている。
- 以下は2023年時点のもの
- スピードガンコンテスト(試合ごとに異なる募集形式で選ばれた10名がマウンドから投げる、ホーム最終戦はマスコミ記者対抗戦が行われるのが恒例。読売新聞グループ各社(読売新聞・日本テレビ放送網・スポーツ報知)の記者に対しては、ブーイングまたは野次が飛ぶこともある。)
- BAYスマイルショット(オーロラビジョンを使用した写真撮影、試合前と試合中に数回ずつ)
- ズッバーン!NICE PITCHING(1名がたにしげるくんのミットにめがけて投球、成功すればベイ餃子のトッピング無料などの特典)
- ドッカーン!FLY CATCH(試合によって異なるが1名か2名がフライキャッチに挑戦、成功すればホットドッグのトッピング量2倍などの特典)
- ハマスタバトル(ファンとdianaによるリレー対決、交流戦では、ビジター応援デーでパ・リーグのチアチームと対決する。)
- アンカーは脚が早いAkiがほぼ必ず務める。
- 2023年は、持ち込み企画として、福岡PayPayドームでハニーズとリレー対決を行ったり、オールスター戦でリレー対決を行ったことがある。この時もアンカーはAkiが務め、脚の速さを披露している。
- ハッピースターダンスコンテスト(5回裏終了後。オーロラビジョンを使用したダンスコンテスト、一番多く映った人に賞品が送られる。賞品は2006年がグローブ、2007年がデサント提供の年間指定席ペア招待券、2016年 - 2019年、2023年がアットホーム提供のベイブルーシートペア招待券)
- サインボールの投げ入れ(ヒーローインタビューに出た選手のもの)
- 横浜スタジアムでは交流戦と相手チームのマスコットが来場している時、そして(本球場での)同一カードシーズン最終戦に限り、7回にビジターの応援歌が流れる。
- 年数回、『BLUE☆LIGHT SERIES』と題し、ミュージシャンをゲストに招き、試合終了後(但し、ベイスターズの勝敗に関係なく行うが、試合時間が極端に延長し、深夜に及ぶ可能性がある場合開催しない場合あり)に、ミニライブを行う企画[131]があり、その場合はナイトゲームの試合開始を通常より早めの17:30か17:45の薄暮開催に準じたものに繰り上げる。当日の入場券購入者は、別途追加料金を払うことで、試合終了後(ベイスターズ勝利時はヒーローインタビューなどのセレモニー後)にグラウンドに降りて鑑賞できるアリーナ席が用意されている。
株主構成[編集]
- 2016年3月31日現在
国土計画との資本提携とニッポン放送・TBS(現・TBSホールディングス)への譲渡[編集]
前述の沿革にもある通り、元々大洋球団は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)の100%出資だったが、1978年の完成を目指して横浜スタジアムの改築が行われるにあたり、当時の国土計画社長・堤義明は、大洋球団の第三者割当増資を行う際、株式の約45%を取得して第2位の筆頭株主となった。
しかし、横浜スタジアムが完成した1978年10月、クラウンライターライオンズを運営する福岡野球株式会社の保有株式を、個人の中村長芳から国土計画が買収、本拠地を西武ライオンズ球場(後の西武ドーム、現・ベルーナドーム)に移転した際、野球協約による、同一企業、ないしはその関連会社が複数の球団を支配することを禁じる違反規定に触れるため、この際、ニッポン放送に3割、残り15%を当時の東京放送に譲渡している。しかし、2001年のマルハ(現・マルハニチロ)からの球団経営権譲渡に際して、ニッポン放送の保有株をめぐり、ヤクルトスワローズの第2位株主であるフジテレビジョンとの関係が指摘されることになる。
マルハ(現・マルハニチロ)からTBS(現・TBSホールディングス)への筆頭株主交代[編集]
2001年11月16日、経営が悪化していた当時の筆頭株主(親会社)・マルハ(現・マルハニチロ)が球団株の第2位の株主だったニッポン放送への球団株譲渡(身売り)を発表し、NPBも一旦はこれを認めた。ところが10日以上も経ったところで読売ジャイアンツの渡邉恒雄オーナーが「ニッポン放送の持分法適用関連会社であるフジテレビジョンがヤクルトスワローズの球団株を所有しており、横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と異議を申し立て、これをきっかけにニッポン放送への球団株売却は頓挫。最終的に第3位株主のTBSに譲渡された(この結果、TBSが51.54%で1位、ニッポン放送が30.77%で2位、TBS系列のBS-iが17.69%で3位となった。[134])。この際、TBS(現・TBSホールディングス)がもともとベイスターズの株主企業のひとつだったことから、「筆頭株主の交代」という判断が下された。この判断により、当時の野球協約に規定されている球団譲渡を受ける際の加盟料30億円[注釈 50]の支払いは不要とされた。
それまでの球団の身売りは球団名からユニホームまで一新されるケースばかりだったが、マルハ(現・マルハニチロ)→TBS(現・TBSホールディングス)のケースは球団名もユニホームもそのまま残された。唯一変わったところはユニホームの袖についたTBS(現・TBSホールディングス)のロゴマークが入ったワッペンだけである。横浜ファンでもあるコラムニストの綱島理友は「ファンを悲しませない最もスマートなやり方。球団の身売りはこうあるべきだ」と高く評価している。
2005年10月、楽天がTBS(現・TBSホールディングス)の株式を大量購入して筆頭株主となった。しかし、楽天がすでに東北楽天ゴールデンイーグルスを運営していることから、野球協約違反になる可能性が再浮上した。11月に楽天側は経営統合を撤回、資本・業務提携となったが、TBSが認定放送持株会社TBSホールディングスに移行したことから、楽天は買収を断念して反対株主の株式買取請求権を使い、TBSホールディングスに保有全株式の買取請求を行ったことで問題は収束した。
TBSホールディングスからDeNAへの筆頭株主交代[編集]
前述の通り2002年以降は2005年・2007年を除き、8度も最下位に陥る惨状となった。結局、2011年オフにディー・エヌ・エーに持株の大部分を譲渡して、球団経営から撤退した。
中日へ谷繁元信やT.ウッズ、巨人へ村田修一やM.クルーンなど、同一リーグへの主軸流出を黙認しており、優勝を狙う経営姿勢とは程遠かった。球団運営の荒廃も進んでおり、球団スタッフ全員がインターネットにアクセスする環境すらないなど、IT企業のディー・エヌ・エーからすれば絶句する状況にあった[136]。
ディー・エヌ・エーが親会社となった2012年以降は上記放送のほか、各ライブ配信サービスでの主催試合生中継も展開している。展開状況は以下の通り。
- ニコニコ生放送(2012年 - )
- SHOWROOM(2015 - 2018年)[注釈 51]
- DAZN(2016年途中 - )※入会有料
- スポナビライブ(2017年)※入会有料
- AbemaTV(2017 - 2018年)[137]
- Paravi(2019年 - 2023年6月)※入会有料
- J SPORTSオンデマンド(2021年 - )※入会有料[138]
- U-NEXT(2023年6月 - )※入会有料[139]
TBSホールディングス時代以降の放映権[編集]
TBS(現・TBSホールディングス)が筆頭株主(事実上のオーナーと目される)だった時代も傘下(子会社)の放送局であるTBSテレビ・TBSラジオでは週末午後に行っていた対巨人戦以外の中継(散発的に中国放送などビジターの地元局にもネット)は大洋漁業(後のマルハ、現・マルハニチロ)が保有していた時代よりも減少し、散発的に行われた程度だった。対巨人戦以外の試合は視聴率と聴取率が取れないことにも起因していた。テレビ中継は通常テレビ神奈川が単独放送し[注釈 52]、同局で放送しないデーゲーム分のみ、自社かテレビ東京系列(対中日戦はテレビ愛知、対阪神戦はテレビ大阪)の中継で補っていた。フジテレビも過去の球団とニッポン放送との資本関係上放映権は保有しているが、2006年以降自社での放送から撤退し、対戦相手の地元系列局(対阪神戦は関西テレビ、対ソフトバンク戦はテレビ西日本、対広島戦はテレビ新広島)制作中継のために使っていた。こちらもコスト削減のために球団経由でTBSテレビから主要映像の配信を受けることがあった。
CS放送については、2002年にマルハ(現・マルハニチロ)からTBS(現・TBSホールディングス)に譲渡されてからも、しばらくは巨人戦のTBS系列全国中継実施時のみTBSニュースバードで放送するも、当時フジテレビ系のCSであったJ SPORTS(のちにスポーツ・アイ ESPNとの合併の際、TBSテレビも資本参加)で中継していたが、解説をフジテレビまたはテレビ神奈川の解説者が、実況をTBSテレビのアナウンサーが行うという変則形態の時もあった。2008年以後、TBSニュースバードに放送チャンネルが移行し、制作も全面的にTBSテレビが行う形式となり、さらに2014年シーズンよりTBSチャンネル2に移行された[注釈 53][140]。
ラジオ中継はTBSラジオが基幹局を務めるJRN系列、ニッポン放送が基幹局を務めるNRN系列で裏送りも含めて中継していた。主に対巨人戦が雨天中止になった時の予備カードや、対巨人戦がない時に放送された[注釈 54]。
TBSホールディングスは親会社でなくなった2012年以降もベイスターズの株を保有しており、TBSテレビ・TBSラジオでの中継を継続してきた。しかし、TBSラジオの中継は2017年シーズン限りで自社での放送は撤退し(JRN系列局向け裏送りのみ継続)、現在はTBSテレビのみが中継している。
ユニフォームの変遷[編集]
一軍[編集]
下関時代(旧・大洋時代)[編集]
- 1950年 - 1951年 白は「WHALES」。グレーは「Whales」と「WHALES」を併用。白とグレーの「WHALES」は球団ロゴが左胸についたサンフランシスコ・シールズ型[141]。
- 1951年 ロゴが筆記体の「W」に変更される。同時にビジター用の定番となる「TAIYO」の印が初登場。
- 1952年 胸に「TAIYO WHALES」と書かれたビジター用が登場。この年監督に就任した小西得郎が当時のピッツバーグ・パイレーツのビジター用ユニフォームを参考にしたものである[142]。このフルレターユニフォームはシーズンオフに松竹ロビンスと合併したため1年間しか使われなかったが、1959年に1年間だけ復活している。
- 1950年 - 1951年のホームユニフォーム 2019年に球団創設70周年を記念して復刻された。
大阪時代(大洋松竹→洋松時代)[編集]
- 1953年 松竹ロビンスと合併し、球団名が大洋松竹ロビンスに変更。帽子は黒地にTとSの組み合わせ(Tが銀糸、Sが金糸)。黒いロゴと赤いロゴはホーム用で春・秋用。ノースリーブで赤いロゴのユニフォームは夏用であった。ビジター用は「Taiyo Shochiku Robins」の頭文字を取って筆記体で「TSR」。
- 1954年 球団名が洋松ロビンスに変更。ホーム用とビジター用は同じデザイン。
川崎時代(新・大洋時代)[編集]
- 1955年 松竹が球団経営から撤退し、球団名が大洋ホエールズに戻る。同時にロゴの中に線が入ったユニフォームが登場。左袖に「KANAGAWA」の印が入る。
- 1955年 - 1958年 ブルックリン・ドジャースを参考にしたユニフォームに変更。左袖のワッペンは最初は「KANAGAWA」だったが、1957年から親会社・大洋漁業の社章「まるはマーク」に変更。
- 1959年 - 1962年 クリーム地に橙色の「Whales」ロゴ。1959年のみ帽子マークは「T」と「W」を重ね合わせたものを使用し、ビジター用は「TAIYOWHALES」とチーム名を全て表記したものを使用。翌1960年から帽子マークは「T」となり、ビジター用は再び「TAIYO」表記に。この1960年から白地となり、胸番号が入る。1960年の日本シリーズおよび1961年には左袖にチャンピオンマークが入る。また1961年途中からはホーム用の「Whales」ロゴをと背番号・胸番号の色を反転させ、オレンジ色の縁に黒文字とたものが併用された。
- 1963年 1年間だけ白地に赤の「Whales」ロゴ(黒い縁取り入り)。ビジター用の「TAIYO」のロゴが太くなり、線がオレンジ色から赤に変更される。
- 1964年 - 1972年 白地に黒の「Whales」ロゴ(赤い縁どり入り、レターが逆転)。1968年に帽子の印が筆記体の「W」となる。この「W」の書体は、当時のワシントン・セネタース(現在のテキサス・レンジャーズ)の帽子と同じ[注釈 55]。背中に名前が入るのもこのユニフォームからである。ホーム用は「KAWASAKI」と本拠地の川崎市を意味する英文字が、ビジター用は選手の名前を英文字でそれぞれ使われた[144]。その後、ホーム用は選手名のものと併用される[144]。
- 1973年 素材がニット製に変わり、オレンジ色のロゴが1シーズンだけ復活(グレー地のビジター用は唯一オレンジ色ロゴを採用)。背番号の上の「KAWASAKI」(ビジター用のみ。ホーム用は選手名)もこれが最後。
- 帽子の色は黒にオレンジ色のW。アンダーシャツ・ストッキング・スパイクシューズの色は黒。(スパイクシューズはラインなし)ユニフォームはホーム用の地色が白でビジター用がライトグレー。ホーム用の筆記体のWhalesロゴとビジター用のTAIYOロゴ、胸背番号、背番号の上のネームがオレンジを黒で囲んだものとなり襟袖ズボンラインもオレンジを黒で囲んだものとなる。帽子のWマークはそれまでの筆記体から斜体がかったデザインに変更。左袖に「まるは」マーク。
- 1974年 - 1977年 基本色が湘南電車カラーと呼ばれたものになる(経緯については後述)。
- 帽子はグリーン地にツバ・天ボタン・空気穴がオレンジ。マークはオレンジに白縁の「W」(1974年前半は白縁なし)。
- ホーム用は、オレンジ色地に緑の「Whales」ロゴ(白い縁取り入り)が入ったユニフォームを使用。
- ビジター用は緑地に橙色の「TAIYO」ロゴ(白い縁取り入り)となっている。
- パンツはホーム用・ビジター用ともベルトレス。
- 1977年後半から、袖の「まるは」マークが「鯨に乗った少年」のイラストに変更。また、ビジター用の胸マーク、背番号、背ネームの白縁取りがなくなり、背番号が若干小さくなる。
横浜時代[編集]
横浜大洋ホエールズ時代[編集]
- 1978年 - 1992年 本拠地が川崎から横浜へ移転し、球団名が横浜大洋ホエールズに変更され、チームカラーが紺一色になる。帽子は紺色でマークは白で「W」。
- ホーム用は、白地にマリンブルー(紺色)のライン。胸に本拠地名のロゴ「YOKOHAMA」(紺色)、左袖に「TAIYO」(同)[注釈 56]。
- ビジター用は、上着が紺色に白(ホーム用と逆)で「TAIYO」、左袖に「WHALES」。「TAIYO」、「WHALES」のロゴはこれが最後。パンツはグレー[注釈 57]。
- スパイクは、紺地に白のラインでローリングス(日本での発売元はアシックス)を使用し、当時の12球団では唯一の採用であった。
- 1980年、ヘルメットの横に自分が打ったホームランの数だけ星印のシール(通称:ホームランスター)を貼る制度を導入。
- 1982年、関根潤三の監督就任に伴い、帽子の形が変更。単に紺の帽子に白で「W」と入れられていた物から、帽子のフロントに「W」と刺繍された台が貼り付けられた物に変更された。以降は横浜大洋ホエールズ最終年の1992年までこの帽子が使用されていた[145]。
- 1978年 - 1992年のホームユニフォーム 2017年にハマスタレジェンドマッチで遠藤一彦が着用
横浜ベイスターズ時代[編集]
- 1993年 - 2008年 球団名が横浜ベイスターズに変更され、ユニフォームも一新。チームカラーのマリンブルーと呼ばれる青[注釈 58]を基調とし、スパイクも同じデザインで青地に白線となる。ユニホームは第3ボタンまで脱着可能(後は飾りボタン)のプルオーバータイプとなる。背番号、胸番号、選手名は日本球界で初めてカッパー・プレート・ゴシックと呼ばれる製版業で使われる書体を採用。途中若干のマイナーチェンジはあったが、球団史上最長の16シーズン採用されたデザインとなった。帽子は、青地に白の「β」、後ろに☆が3つ。
- ホーム用は白地に青のピンストライプ。青地に白の縁取りの「BayStars」のロゴ。胸番号、背番号は黒、選手名は青となる。
- ビジター用は上着が青、パンツが白で、袖とパンツに2本線(上着は白、パンツは青)が入る。胸ロゴは白の「YOKOHAMA」の文字とβの印、選手名、背番号、胸番号は白。
- 1996年 - 大矢明彦監督就任と同時に、帽子のマークの☆の数が3つから1つに変更(デザインは、☆の中にβが入る。色は白)。
- 2001年 - スパイクの色が白地に青線になる。
- 2003年 - パンツの2本線が細くなる。
- 2004年 - 袖の2本線が細くなる。
- 2006年 - ビジター用の左胸のβの後ろにある星のマークが消え、「YOKOHAMA β」のみとなる。ホーム用の白地が明るくなり、ピンストライプ部分が刺繍からプリントになる。
- 1993年 - 2008年のホームユニフォーム
- 2009年 - 2011年 横浜開港150周年に合わせてホーム・ビジターとも一新。胸元にyokohamaの頭文字にちなみ「Yネック」を採用。プロ野球では2001年のオリックス・ブルーウェーブ以来となる前開きでないプルオーバータイプを採用する。胸番号・背番号がゴシック体のような書体になる。アンダーシャツ、ベルト、スパイクの色が紺。帽子のマークから☆マークが消え、「β」のみになる。
- ホーム用はピンストライプがなくなり、左胸に「β」の印、右腹部に背番号。両肩に銀色の星マークが入る。「BAYSTARS」の大文字ロゴがパンツの左側線に入る。背ネームは幅狭。
- ビジター用はグレー地、白のピンストライプ、前面に筆記体の「Yokohama」の文字、左腹部に背番号。ビジター用のみ帽子のツバの色が青色。背ネームはホームに比べて幅広。
- 2009年 - 2011年のホームユニフォーム
- 2009年 - 2011年のビジターユニフォーム
横浜DeNAベイスターズ時代[編集]
- 2012年 - 2014年 球団名が横浜DeNAベイスターズに変更され、新しい球団としてスタートしたことに伴い、ユニフォームのデザインを一新。新しいユニフォームのデザインコンセプトは、チームロゴ、プライマリーマークと同様に、「継承と革新」。「ワクワク感」「強さ・かっこ良さ」等、ファンが球団に期待する要素をイメージしてデザイン。帽子のマークがホーム用とビジター用で違うなど、斬新なアイデアが盛り込まれた。
- ホーム用は「継承と革新」をコンセプトに1993年から2008年まで使われたデザインを踏襲、4季ぶりに縦じまが採用され、1998年に日本一に輝いた当時のユニホームを彷彿とさせるデザインとなった。白を基調にライトブルーの縦線で、上下縦じまを採用。胸には新球団のロゴを据えられたほか、脇下には濃紺、袖口・首回りにはライトブルーのラインがそえられた。帽子は濃紺を地色にチームのシンボルマークの「B」。
- ビジター用の上は濃紺がベースとした単一カラーで袖口や首回り、ラケットラインには薄い青。ズボンは白と濃紺の二種類を用意、上下とも濃紺のユニホームを着用することもある。背番号・胸番号と胸の「BAYSTARS」の文字は「横浜の海」をイメージし、白と水色のグラデーションがかかったデザインとなった。帽子には濃紺を地色にチームの象徴でもある「星」をあしらった。
- 主将に任命された石川雄洋のユニフォーム左胸上部には、キャプテンマークの「C(ホーム用は白縁に赤、ビジター用は黒縁に金色)」の文字が入る。
- 7月3日から5日の対巨人戦では、本拠地の横浜スタジアムでビジター用ユニフォームを着用するイベントを開催。ただし、ソックスはイベント用に作られたもの(紺色地にブルーの二本線)を使用。
- 2013年 ホーム用・ビジター用ユニフォームに加えて、新たに「第3のユニフォーム(サードユニフォーム)」が登場。3月29日の中日戦から年間を通して週末のビジターゲームを中心に着用した(月曜日の試合も着用)。
- デザインは1993年から2008年まで使用していたビジターユニフォームを彷彿とさせる「ベイスターズブルー」をメインカラーに採用、首回りと袖口に水色が据えられた。左袖にチームロゴ、胸に「YOKOHAMA :DeNA」のロゴ、:DeNAの文字の下に胸番号。ロゴ・胸番号・背番号・背ネームは、白字でネイビーと水色で縁取り。ズボンは白で、水色の線が入る。帽子は青地に白字で「:De」(ネイビーと水色で縁取り)[146]。
- なお、ユニフォームの背ネームに関して、井納翔一 (INOH) や大原慎司 (S.OHHARA) のようにヘボン式ローマ字表記とは別に、大田阿斗里 (ŌTA) のように訓令式ローマ字(かつて、阪急ブレーブスが採用した)表記が混在していた。
- 2014年 - 2015年 前年使用したサードユニフォームの勝率が.575のハイアベレージを記録したことで、このサードユニフォームを新ビジターユニフォームとして導入。デザインは、胸ロゴが「:DeNA」に変更になり右袖に「YOKOHAMA」で、それ以外は前年のサードユニフォームと同じ[147]。
- 2015年 - 2022年 ホームユニフォーム
- デザインは前年まで使用したホームユニフォームと同じで、メインカラーを「海と港の街」横浜をイメージした鮮やかな「横浜ブルー」に変更。また、ユニフォームの首元の裏に選手自身が大事にしているスローガンや目標を言葉にした「Personal slogan」が記される。帽子は「横浜ブルー」にチームのシンボルマークの「B」。ヘルメットが星に照らされて輝く海をイメージした「横浜ブルーメタリック」。
- 2016年 - 2019年 親会社がDeNAとなって5周年を記念し、ビジターユニフォームを変更。
- 「海と港の街、横浜」をコンセプトに、これまで、ビジターユニフォームの胸に配していた「DeNA」のロゴを「横浜に根づき、横浜と共に歩む」という想いから「YOKOHAMA」に変更。球団のメインカラー「横浜ブルー」をベースに、青色の濃淡のストライプを使って、横浜の澄み渡る青い空と海を表現したデザイン[148]。
- 2018年 - ビジターゲーム用のキャップデザインを変更。”YOKOHAMA”に対する皆様の想い・誇りと共に敵地で戦うという強い意志を込め、従来の「:De」から、ビジターユニフォーム胸部の「YOKOHAMA」の「Y」と同じデザインに変更した[149]。
- 2019年 ホームユニフォーム、ビジターユニフォームの袖についているプライマリーマークを2019年シーズン限定で70thプライマリーロゴに変更[150]。
- 2020年 - 2023年 ビジターユニフォームを一新。コンセプトは、「より青く、より強く。」。カラーは、球団のメインカラーである「横浜ブルー」を中心に、港町・横浜の海のように鮮やかな4種類の青色を使い、全て青色で構成。さらに、上部へ大きく拡がる「ストライプ」の動きを加えることで、選手の力強さを引き立て、無限に広がる可能性を表現した[151]。
- 2023年 - 2015年以来のデザイン変更となる新たなホームユニフォームは過去の歴史や伝統を継承し、さらなる進化を遂げていきたい、という思いを込めた。2023年シーズン、チームとファンのとの一体感をより強く生み出していくべく、これまでのユニフォームの象徴的なストライプを集約し、頂点を目指す一本の道"YOKOHAMA STRIPE"へ。"YOKOHAMA STRIPE"の5本の線には選手それぞれの個性が結束し、同じ一本の道へ進んでいくことを同時に表現した[152]。
- 2024年 - 2023年シーズンより新しくなった「ホームユニフォーム」同様、「新ビジターユニフォーム」にも、ベイスターズの伝統を継承するストライプを活かしている。これに「波形」を組み合わせ、新しいビジターユニフォームを象徴するモチーフとして使用している。
- この「波形」には2つの意味があり、1つは横浜を象徴する「海」を表す波。幕末、日本が大きく変わるきっかけとなったこの地には「海」が身近にあり、それがこの地のプライドでもあり、変化の地、横浜のプライドを胸に、新たな歴史を築いていく。そしてもう1つはファンからの「声援」。ハマスタで波のように押し寄せる「声援」は、チームの力となり、それが確実にチームの勝利を後押ししていく。ファンと一体となり、共に頂点を目指したいという思いをこめた[153]。
- 2024年4月23・24日の対阪神戦と4月26日の対巨人戦では、『BLUE☆LIGHT SERIES 2024 Supported by nojima』の一環として、ビジターユニフォームをホームゲームで着用したことから、通常はセ・リーグの規定で入っていないスポンサーロゴが追加されていた。
- 以前に左袖にプリントされてた球団プライマリーマークはこのユニフォーム独自のロゴに変更されている。
- 2012年 - 2014年のホームユニフォーム
- 2012年・2013年のビジターユニフォーム
- 2013年のサードユニフォーム
- 2014年 - 2015年のビジターユニフォーム
- ホームユニフォーム(2015年 - 2022年 、撮影は2016年)
- 2016年 - 2019年のビジターユニフォーム(撮影は2018年)
- 2020年 - 2023年のビジターユニフォーム(撮影は2022年)
- 2023 - 、のホームユニフォーム
二軍[編集]
- 2000年 - 2010年 二軍の独立採算化と一軍との差別化を目的に、二軍の球団名を「湘南シーレックス」に変更し、ユニフォームも独自のものを使用。帽子は紺色を地色に白の「S」マーク、ツバはエメラルドグリーン。
- ホーム用:シャツは白地にエメラルドグリーンの首元から胸にかけてのラケットラインと袖口のラインが入り、胸にエメラルドグリーンで筆記体の「Searex」ロゴ、胸番号・背ネーム・背番号は黒、パンツは白地に横に青緑色のライン、アンダーシャツは青緑色。
- ビジター用:シャツはエメラルドグリーン(ラインなし)、胸に白で筆記体の「Shonan」ロゴ、胸番号・背ネーム・背番号は白、パンツは白地に横にエメラルドグリーンのライン、アンダーシャツは青。
- 日本のプロ野球球団のユニフォームの多くは、背番号・背ネーム部分をユニフォームの生地に直付け(刺繍もしくはプリント)しているが、湘南のユニフォームの背ネーム部分は、アーチ状の生地にネームをプリントしたものをユニフォームの生地に縫い付けている。これは「シーレックスに定着されては困る」という励ましの意味で、2012年現在、日本のプロ野球球団に於いては唯一のケースである。
- 湘南シーレックスのホームユニフォーム
- 湘南シーレックスのビジターユニフォーム
交流戦限定ユニフォーム[編集]
- 2005年 - 2006年 ホーム用はピンストライプがなくなって左胸には「β」の印、右袖に背番号。左袖にTBSのロゴのワッペン。ビジター用は灰色の下地に前面に筆記体で「Yokohama」の文字、ホーム用と同じく右袖にも背番号。
- 2007年 - 2008年 ホーム用のみとなり、チームカラーの青を一切使わない紺基本のユニフォーム。左胸には「β」の印、右胸に背番号が紺に金の縁取り。両脇には横浜赤レンガ倉庫をイメージした臙脂色が用いられる[注釈 59]。
- 2009年以降は登場していない。
夏季限定ユニフォーム[編集]
- 横浜ベイスターズ時代
2004年から毎年原則で、夏季限定ユニフォームを採用しており、いずれも8月の主催ゲームで行われるのみである。交流戦・夏季限定ともに、2年ごとにデザインが変更されている[注釈 60]。
- 2004年 - 2005年は白の下地の前面に「BayStars」のロゴが入り、脇下が青で当時の西武ライオンズのデザインとよく似ていた。両年とも期間終了後に選手のサインをいれてファンにプレゼントされる。背番号の氏名ローマ字は記載されていない。
- 2006年 - 2007年は白地の前面にブロック体で「BAYSTARS」の刺繍、その左上の方に背番号、左肩に「yokohama」、背中には背番号のみで首周りは青色で肩付近にかけてマリンブルーにし、帽子はマリンブルー地に「B」のみ。「ベータ・キャップ」と称される。
- 2010年は3年ぶりに夏季限定ユニフォームが登場した(2011年も同デザイン)。デザインは通常ホーム用をベースに、ラグランスリーブ部はグラデーション入りの青として背番号にも金の縁取りが入る。キャップは通常ビジター用をベースに、マーク部が金文字となる。
- 横浜DeNAベイスターズ時代
親会社がディー・エヌ・エー(DeNA)に変更されてからは、毎年夏に『YOKOHAMA STAR☆NIGHT(ヨコハマスターナイト)』というイベントが行われており、2013年からはその期間中に選手および監督・コーチはスペシャルユニフォームを着用。
- 2013年8月2日からの対中日3連戦にて、選手プロデュースのスペシャルユニフォームを着用[154]。「横浜の街もチームも星のように輝いて」という選手の思いから青を基調に空に輝く星空をイメージして肩や胸、背中などにかけて白い星がちりばめられたデザイン。胸には「YOKOHAMA」の文字が入る。帽子はサードユニフォームと同じもので、青地に白字で「:De」(ネイビーと水色で縁取り)。
- 2014年8月8日からの対ヤクルト3連戦にて、夜空を彩る流れ星をイメージしたデザインのユニフォームを着用。プロ野球で一番輝く星になりたいという選手・ファンの思いを表現して青を基調にチームカラーの青や勝利の白星を意味する白で描かれた星をデザインし、キャップはビジター仕様のものを用いた。
- 2015年8月18日からの対ヤクルト3連戦にて、「海と港の街・横浜」を象徴する港の光きらめく水面をモチーフとしたデザインで、水色、青、濃紺の爽やかな迷彩柄で、小さく12選手のシルエットも描かれている。キャップには、この3試合限定で勝利を意味する「白星」が刺繍されたものを用いた。
- 2016年8月5日からの対中日3連戦にて、夜の横浜に輝く星空をモチーフとしたデザインで、横浜ブルーの夜空に煌めく星を幾何学模様のグラデーションで表現したものとなった。キャップには通常のホームゲームで着用するものの左つばにDeNA球団5周年に合わせ「5th ANNIVERSARY」と刺繍されたものを用いた。
- 2017年8月1日からの対中日3連戦にて、「“星空の煌めき”ד横浜の街並み”」をテーマとしたユニフォームを着用。夜の横浜を空から見下ろした、きらめく街明かりをモチーフとし、横浜ブルーをメインカラーに星空の煌めきをドット表現による幾何学デザインで表した。「横浜スタジアム」や2017年3月にオープンした球団の複合施設「THE BAYS」をはじめ、横浜の名所がデザインの中に隠されている。キャップはホームユニフォームと同じ物を使用[155]。
- 2018年7月31日からの対巨人3連戦では、「スパンコールのように輝く横浜の星空」をテーマとしたユニフォームを着用。きらきらとスパンコールのように輝く横浜の星空を、“横浜ブルー”を基調に濃淡をつけた青色で表した。また、レプリカユニフォームにはより輝きを表現するために、光沢感と凹凸のある素材を球団として初めて採用し凹凸を活かしたテクスチャーにこだわり、本物のスパンコールがついているような立体感のあるデザインとなった。キャップは通常のビジターゲーム時の物を使用[156]。
- 2019年7月30日からの対ヤクルト3連戦では、「宇宙への航海」をテーマとしたユニフォームを着用。左胸を中心に球団ロゴに含まれる様々な青色を同心円状の楕円にあしらったデザインで宇宙を表し袖は紺色とし、STAR☆NIGHTシリーズで初めてテーマデザインに合わせたマークとして楕円形のデザインを取り入れたYのマークを左胸の楕円中心部とキャップにあしらい宇宙の中心である横浜を表した[157]。
- 2020年9月8日からの対阪神3連戦では、「Supernova」をテーマとしたユニフォームを着用。昨年度からのスピーシー感を踏襲し、横浜を中心に広がる宇宙を“横浜ブルー”をはじめ、球団ロゴマークに含まれる様々な青色で表現した。キャップは通常のビジターゲームの時の物を使用[158]。
- 2021年9月7日からの対巨人3連戦では、「STAR NIGHT X(スターナイトテン)」をテーマとしたユニフォームを着用。黒地にDeNA球団10周年を意味する「XYDB」のロゴを4行羅列し文字は過去のSTAR☆NIGHTシリーズのユニフォームに用いられた模様を取り入れつつ左胸にビジターユニフォームと同様のYのマークを付け、襟・袖は紺色と袖口に白と水色のラインを入れた[159]。
- 2022年8月2日からの対広島3連戦では、日本プロ野球史上初となる襟付き開襟シャツ型ユニフォームを着用。横浜の象徴的なモチーフを入れ込んだ「横浜の夏」を感じるアロハシャツ調のデザインとなっている[160]。
- 2023年8月8日からの対中日戦3連戦では、「STAR NIGHT SIGN」をテーマとしたユニフォームを着用。星空の模様を基調に横浜スタジアムの座席図の線画や選手の姿をした星座等のデザインと左胸にYのマークををあしらい横浜の夜空をイメージしたものとした。背番号・選手名部分とキャップやユニフォームに金色を一部あしらいチーム・ファン・横浜の街の光を集め優勝への道を輝かせる思いを込めた[161]。
- 2024年7月9日からの対中日戦3連戦では、「星、波、青薔薇。」をテーマとしたユニフォームを着用。横浜市の花である「バラ」とベイスターズの「ブルー」をひとつにした、“みんなの夢がかなう”という願いを込めたイベントテーマである青薔薇を胸に。そして、横浜港付近がモデルとされる葛飾北斎の代表作「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」をオマージュしたデザインや漢字を入れ込むことにより、横浜が、そしてSTAR☆NIGHTがもっと世界から注目される存在になりたいという願いも込めた。ユニフォームの左胸とキャップには漢字で「横濱」、選手の背ネームは外国人選手を含め漢字フルネームもしくは登録名がデザインされている[162]。
復刻ユニフォーム[編集]
- 2010年8月にセ・リーグにおける球団の主催で行われた「オールド・ユニフォーム・シリーズ」では横浜大洋時代のホーム用ユニフォームを使用した[163]。
- 2012年8月 - 9月にセ・リーグにおける球団の主催で行われた「レジェンド・ユニフォーム・シリーズ」では横浜ベイスターズ時代の1993年 - 2008年まで使用され、1998年の優勝・日本一時のビジター用ユニフォームを使用した[注釈 61]。
- 2016年、DeNA球団5周年記念の一環として5月10日 - 12日の中日戦、6月15日・20日[注釈 62]の北海道日本ハム戦を対象に横浜大洋ホエールズ時代のホームユニフォームを選手たちが着用して戦う「We☆YOKOHAMA DAY」を開催した[164]。横浜DeNAベイスターズとなってからは初の大洋ホエールズ復刻ユニフォームである[注釈 61]。
- 2019年3月10日にオーヴィジョンスタジアム下関で開催される予定だった「球団創設70周年記念試合」の広島東洋カープとのオープン戦では、1950年のホーム用ユニフォームを復刻したものを着用[注釈 61]して試合をする予定だったが、試合開始直前の降雨により中止となった。この記念試合と復刻ユニフォームの着用は、改めて2019年3月21日の北海道日本ハムとのオープン戦(横浜スタジアム)にて行われた。
- この他、2006年のファン感謝デーには、大洋・横浜大洋時代の復刻ユニフォームを着用してアトラクションをこなしている。
- 2023年6月2日からの対西武3連戦[注釈 63]は『GET THE FLAG! SERIES 2023』と題し、1993年 - 2008年まで使用されたホーム用ユニフォームを着用した[注釈 64][165]。同年9月8日からの対ヤクルト3連戦でも使用されている[166]。
その他[編集]
- 2019年4月12・13日の対広島戦、6月22・23日の対楽天戦、8月10・11日の対中日戦を対象に球団創設70周年を記念した「70th ANNIVERSARY GAME」にて、横浜ベイスターズ時代の初代ビジターユニフォームを踏襲した青色とロゴ配置、大洋ホエールズ時代の初代「W」マークを横にしたBマーク、袖とパンツ横に1959年の二本線を踏襲した上で1974年からの湘南電車カラーのオレンジと緑、右胸と背の「YOKOHAMA」を初代大洋ユニフォームをイメージしたフォント、横浜大洋時代を踏襲した背番号ロゴタイプとショルダーデザインといった歴代のユニフォームデザインをモチーフとした「70th ANNIVERSARY UNIFORM」を着用。
- 2024年に前身の大洋ホエールズが神奈川県に本拠地を移転して70年目を迎えたことを記念して始動した『ありがとう神奈川。これからも共に。』プロジェクトとしてKanagawaユニフォームを制作。7月26日(金)から8月18日(日)までの期間に行われる主催試合全12試合で監督・選手らが着用予定。Kanagawaユニフォームは1955年当時のユニフォームをオマージュしたデザインとなっており、当時の球団ロゴカラーであるネイビーをメインカラーとしているほか、背番号の縁取りや背ネームには当時のみかん色やオレンジを採用。右肩には当時と同じく「KANAGAWA」を表すロゴマーク、左肩には『ありがとう神奈川。これからも共に。』プロジェクトのロゴを配置しており、また、球団として初めて胸元に「Kanagawa」の文字をデザインした、地元神奈川への感謝を込めた一着となっている[167]。
ユニフォームのスポンサー[編集]
- 全てホーム用。太字は現在掲出中のスポンサー。
左胸[編集]
- 2008年 ノジマ
右胸[編集]
- 2009年 - 2011年[注釈 65]、2023年 - ノジマ
袖部分[編集]
ズボン[編集]
- 2007年 TBS(ジ〜ンマーク入り)
- 2008年 マイナビ(毎日コミュニケーションズ)
- 2009年 - 2011年 TBS(TBSテレビ〈2009年4月より旧東京放送からTBSの略称を引き継ぐ〉。ブーブとピンクリボン活動とのコラボレーション)
- 2012年、2015年、2017年 リスト
- 2013年 - 2014年、2018年 DeNA
- 2019年 Paravi
- 2020年 - マルハニチロ
ヘルメット[編集]
- 2007年 - 2008年、2010年 - 2011年 、2013年 - 2014年 リスト
- 2009年 TBS、開国博Y150
- 2012年 Mobage
- 2015年 - 2017年 Paloma
- 2018年 - 大和地所レジデンス
その他の球団スポンサー[編集]
- スポンサーキャンペーン参照(協賛企業・団体のバナーを含むリンクアイコンが貼ってある)
球団旗の変遷[編集]
一軍[編集]
- 1950年 - 1953年:白地に赤文字で大洋漁業の社章(通称・まるはマーク)。
- 1954年:球団名が洋松ロビンスに変更され、紫地に赤字で大洋漁業のまるはマークと松竹の社章を合体。
- 上半分がまるはマーク、下半分が松竹の社章。
- 1955年 - 1963年:球団名が大洋ホエールズに戻り、合併前のデザインに大洋の社名が入る。「大(は)洋」
- 1964年 - 1977年:漢字を「TAIYOWHALES」とアルファベットに変更。「TAIYO(は)WHALES」
- 初期にはKAWASAKI(川崎)という文字が入るバージョンも存在した。「KAWA(は)SAKI」
- 1978年 - 1992年:紺色地に白文字で「W」。その下に同じく白文字で小さく「YOKOHAMA TAIYO」
- 1993年 - 2011年:中央に「YOKOHAMA BayStars」ロゴ、その下に小さく「REACH FOR THE STARS」(慣用句で“トップを目指せ”)。ホーム用は白地に青文字、ビジター用は青地に白文字。文字の後ろには☆のグラデーション。
- 2012年 - :上下に青・青緑色のツートンカラーのライン、白地に青の横ストライプ、青いリボンが巻きついた星マークに文字が入った(☆の中央に「BAYSTARS」、巻きついたリボンの上に「DeNA」、下に「YOKOHAMA」)プライマリーマークを使用。
二軍[編集]
- 2000年 - 2010年:湘南シーレックス時代のもの。白地に渦潮を模したグラデーション、中央に「SHONAN Searex」ロゴ、その下に一軍のものと同様に「REACH FOR THE STARS」のスローガンが入る。
歴代本拠地[編集]
- ※本来は松竹ロビンスの本拠地であった衣笠球場と大洋ホエールズの本拠地であった下関球場のダブルフランチャイズであったが、実質的には松竹ロビンスの準本拠地とされていた大阪スタヂアムの方が集客能力が高いということで、使用頻度が多くなった。なお、大阪スタジアムが一応のメイン球場ではあるが、松竹時代の本拠地・西京極総合運動公園野球場では、1953年に18試合、1954年も15試合の主管試合を行っており、京都新聞社が主催していた[9]が、下関での主管試合は、1953年2試合=9月6日の読売巨人軍戦のダブルヘッダー[168]、1954年3試合=4月4日の大阪タイガース戦のダブルヘッダー、4月11日の読売巨人軍戦シングル[169]の2年間で合計5試合にのみにとどまってしまった。
なお、2020年は東京オリンピック/東京パラリンピックの開催により、横浜スタジアムは、硬式野球(男子)とソフトボール(女子)の試合会場として使われ、その準備などの都合により、6-9月の一部試合の開催ができないため、東京ドームで6試合、新潟県立野球場や、千葉ロッテマリーンズの本拠地千葉マリンスタジアムでの代替開催も予定していたが[170]、オリンピックの開催延期に伴い、全て横浜スタジアムに変更となった[171]。
2021年は延期になった東京オリンピック/東京パラリンピックの開催により、横浜スタジアムは、硬式野球(男子)とソフトボール(女子)の試合会場として使われ、その準備などの都合により、6-8月の一部試合の開催ができないため、東京ドームで6試合、新潟県立野球場で2試合、東京ヤクルトスワローズの本拠地明治神宮野球場で5試合の代替開催を行っている。
歴代監督[編集]
※太字はリーグ優勝、◎は日本一
代 | 氏名 | 就任[※ 1] | 退任[※ 2] | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|
大洋 | 1 | 渡辺大陸 | 1950年 | 1950年 | ここから大洋ホエールズ(第1次) |
2 | 中島治康 | 1951年 | 1951年6月30日 | 選手兼任監督 | |
3 | 有馬義一 | 1951年7月18日 | 1951年 | 当時の球団専務(選手・指導者歴なし) | |
洋松 | 4 | 小西得郎 | 1952年 | 1953年 | ここから大洋松竹ロビンス |
5 | 永沢武夫 | 1954年 | 1954年 | ここから洋松ロビンス | |
大洋 | 6 | 藤井勇 | 1955年 | 1955年 | 選手兼任監督 ここから大洋ホエールズ(第2次) |
7 | 迫畑正巳 | 1956年 | 1958年 | ||
8 | 森茂雄 | 1959年 | 1959年 | ||
9 | 三原脩◎ | 1960年 | 1967年 | ||
10 | 別当薫(第1次)[※ 3] | 1968年 | 1972年8月30日 | ||
11 | 青田昇 | 1973年 | 1973年 | ||
12 | 宮崎剛 | 1974年 | 1974年 | ||
13 | 秋山登 | 1975年 | 1976年 | 1977年二軍監督 | |
14 | 別当薫(第2次) | 1977年 | 1979年 | 1978年から横浜大洋ホエールズ | |
15 | 土井淳[※ 4] | 1980年 | 1981年9月24日 | ||
16 | 関根潤三 | 1982年 | 1984年 | ||
17 | 近藤貞雄 | 1985年 | 1986年 | ||
18 | 古葉竹識 | 1987年 | 1989年 | ||
19 | 須藤豊 | 1990年 | 1992年5月2日 | ||
20 | 江尻亮 | 1992年5月3日 | 1992年 | ||
横浜 | 21 | 近藤昭仁 | 1993年 | 1995年 | ここから横浜ベイスターズ |
22 | 大矢明彦(第1次) | 1996年 | 1997年 | ||
23 | 権藤博◎ | 1998年 | 2000年 | ||
24 | 森祇晶[※ 5] | 2001年 | 2002年9月25日 | ||
25 | 山下大輔 | 2003年 | 2004年 | ||
26 | 牛島和彦 | 2005年 | 2006年 | ||
27 | 大矢明彦(第2次)[※ 6] | 2007年 | 2009年5月17日 | ||
28 | 尾花高夫 | 2010年 | 2011年 | ||
DeNA | 29 | 中畑清 | 2012年 | 2015年 | ここから横浜DeNAベイスターズ |
30 | アレックス・ラミレス | 2016年 | 2020年 | 球団初の外国人監督(2019年に日本国籍取得) | |
31 | 三浦大輔 | 2021年 |
歴代オーナー[編集]
- 中部兼市(1950年 - 1953年)
- 中部謙吉(1953年 - 1977年)
- 中部新次郎(1977年 - 1990年)
- 中部慶次郎(1990年 - 2001年)
- 砂原幸雄(2001年 - 2004年)
- 若林貴世志(2004年 - 2011年)
- 春田真(2012年 - 2015年)
- 南場智子(2015年 - )
永久欠番[編集]
球団の永久欠番は次の通り。
- なし
- マルハ(現・マルハニチロ)時代の1997年より、100を永久欠番として球団に対して貢献のある複数の著名人に与えていたが、2012年に育成ドラフト1位で入団した今井金太が着用したことにより、撤廃された。
準永久欠番[編集]
- 18:三浦大輔
- 横浜大洋ホエールズ時代の1992年から2016年にかけて横浜一筋で活躍した投手。球団は引退に際し、1998年以降[注釈 67]、三浦が着用し続けた「背番号18」を「プレー・振る舞いの両面でチームを牽引するとともに、チームの象徴となるべき選手がつける番号」(通称「横浜ナンバー」)とした。ふさわしい後継者が現れるまで「横浜ナンバー」は欠番とし、ふさわしいと思われる選手が現れた場合には三浦と球団が協議したうえで決定する、としている[172]。その後、2019年からチームの投手コーチ(2020年は二軍監督)に就任した三浦が再度着用していたが、2020年オフの一軍監督就任時に数字を逆にして81に変更した。
- 2022年からは小園健太が着用する[173]。
- 25:筒香嘉智
沢村栄治賞受賞者[編集]
三冠王(投手・打者)[編集]
投手三冠王[編集]
2023年シーズン終了時点で達成者はいない[175]。
打者三冠王[編集]
2023年シーズン終了時点で達成者はいない[176]。
最優秀選手受賞者(複数回)[編集]
投手の複数回受賞者[編集]
2023年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない[177]。
打者の複数回受賞者[編集]
2023年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない[178]。
顕彰[編集]
DeNA球団では、球団在籍時に日本プロ野球名球会の入会条件である通算2000本安打・通算200勝・通算250セーブのいずれかを達成した選手を、球団の貢献者として顕彰している。2023年現在では7人が顕彰されており、その功績を讃えるレリーフが横浜スタジアムの右翼外野席最上段の手すり(2012年以降。それ以前は現在リボンビジョンが設置されている右翼フェンス上部)に設置されている。
2023年現在、レリーフが設置されている顕彰対象者は以下の通り。
背番号 | 選手名 | 守備位置 | 選手歴 | 顕彰理由 | 通算成績 |
---|---|---|---|---|---|
25 | 松原誠 | 一塁手 |
| 2000安打達成 | 2095安打 |
27 | 平松政次 | 投手 |
| 200勝達成 | 201勝 |
10 | 駒田徳広 | 一塁手 |
| 2000安打達成 | 2006安打 |
22 | 佐々木主浩 | 投手 |
| 250セーブ達成 | 381セーブ[注釈 69] |
5 | 石井琢朗 | 遊撃手 |
| 2000安打達成 | 2432安打 |
3 | アレックス・ラミレス | 左翼手 | 2017安打[注釈 70] | ||
99 | 中村紀洋 | 三塁手 | 2106安打[注釈 71] |
※達成順に記載。背番号は条件達成当時、通算成績は顕彰理由に該当するもののみ。
主な歴代の球団歌・応援歌[編集]
- 熱き星たちよ(球団歌)
- 1993年、球団名が「横浜ベイスターズ」となったのを機に製作。メインボーカルは、横浜出身の歌手・高尾直樹、作曲・朝倉紀幸(朝倉紀行)、作詞・秋谷銀四郎。
- 本拠地横浜スタジアム周辺の駅のうち、JR関内駅では2011年6月2日から[注釈 72]現在まで発車メロディとして使用されている。過去には横浜市営地下鉄ブルーライン関内駅にて2012年4月3日から2022年2月1日まで、みなとみらい線日本大通り駅でも2013年4月2日から2019年3月28日まで使用されていた。
- DeNAベイスターズとなった2012年、歌詞のうち球団名部分が「横浜ベイスターズ」から「DeNAベイスターズ」に変更され、中畑清監督以下5選手(三浦大輔・A.ラミレス・森本稀哲・高崎健太郎・石川雄洋)がヴォーカルを担当した「熱き星たちよ・2012年ヴァージョン」を発表。曲調は以前のものとは大きく異なるものとなった。なお、ベイスターズの得点時・勝利時にも応援団によりトランペット演奏が行われるが、この際の歌詞は従来通り「横浜ベイスターズ」のままである。
- 2014年の新バージョンでは、中畑監督、三浦、金城、久保、ブランコ、バルディリス、石川、黒羽根、三嶋の9名が参加。旧バージョンで、ラミレスがアドリブでコールしたセリフは、ブランコとバルディリスによるスペイン語のコールとして継承されている。
- 2015年以降は毎年のように新バージョンが制作されている。
- 勝利の輝き(応援歌)
- 横浜ベイスターズ球団テーマ(公式テーマ。インストゥルメンタル曲)
- 1998年の優勝を記念して製作。主に横浜主催ゲームでの、横浜のスタメン選手発表時にBGMとして使用されていたが、横浜DeNAとなってからは一軍戦のスタメン発表では使用されていない模様。なお、二軍戦のスタメン発表時には従来通り使用されている。
- 勇者の遺伝子
過去[編集]
- 大洋・横浜大洋時代
- 横浜時代
- 横浜Boy Style(イメージソング)(歌:CoCo)
- WINNING(応援歌)(歌:CoCo)
- BayStarsを観にいこうよ(イメージソング)(詞・曲・歌:ダ・カーポ)
- BE A HERO(公式ソング)(歌:クレイジーケンバンド feat.小野瀬雅生)※2006年まで
- 湘南シーレックス
- 若き王者たち(公式ソング)
- Searex Horizon(公式テーマ。インストゥルメンタル曲)
主なキャンプ地[編集]
- 山口県・下関球場:1950、1952
- 兵庫県・神戸銀行グラウンド:1951
- 兵庫県・明石球場:1953、1960 - 1961
- 長崎県・大橋球場:1954
- 鹿児島県・鴨池球場:1955、1957 - 1958
- 千葉県・銚子球場:1956、1962
- 岡山県・岡山球場:1956
- 静岡県・三保東海大グラウンド:1959 - 1961
- 愛媛県・松山球場:1959
- 静岡県・島田球場:1972 - 1973
- 静岡市・草薙球場:1963 - 1971、1974 - 1979、1981 - 1986の一軍キャンプ、(1981・1987 - 1989の二軍キャンプ)、他
- アメリカ合衆国・アリゾナ州メサ市・ホホカム球場:1980 - 1981[注釈 73]
- 静岡県・熱海スタジアム:1980年代、秋季キャンプとして使用
- 宜野湾市・宜野湾市立野球場:1987 -(春季キャンプ。2020年に全面人工芝の屋内練習場を新設[183])
- 神奈川県・横浜DeNAベイスターズ総合練習場:1990 - 2019
- 横須賀市・DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA:2020 -(秋季キャンプ。2020年新設[184])
- 沖縄県・嘉手納町営球場:二軍キャンプ
- 鹿児島県奄美市・名瀬運動公園野球場:2010 - 2019(秋季キャンプ。2020年、ファーム練習場の新設に伴い終了[184])
歴代開幕投手[編集]
年度 | 開幕投手 | 勝敗 | スコア | 対戦相手 |
---|---|---|---|---|
1950 | 今西錬太郎 | ○ | 2-0 | 国鉄 |
1951 | 高野裕良 | ○ | 4-2 | 名古屋 |
1952 | 高野裕良 | ○ | 4-2 | 阪神 |
1953 | 江田貢一 | △ | 1-1 | 名古屋 |
1954 | 権藤正利 | ○ | 9-2 | 阪神 |
1955 | 権藤正利 | ● | 2-8 | 広島 |
1956 | 江田孝 | ● | 2-11 | 中日 |
1957 | 大石正彦 | ● | 0-4 | 広島 |
1958 | 大石正彦 | ● | 6-7 | 阪神 |
1959 | 鈴木隆 | ● | 1-3 | 中日 |
1960 | 幸田優 | ● | 3-4 | 中日 |
1961 | 秋山登 | ○ | 8-7 | 広島 |
1962 | 島田源太郎 | ● | 1-3 | 国鉄 |
1963 | 稲川誠 | ● | 1-4 | 広島 |
1964 | 稲川誠 | ○ | 7-4 | 中日 |
1965 | 稲川誠 | ○ | 1-0 | 国鉄 |
1966 | 秋山登 | ○ | 6-3 | 巨人 |
1967 | 森中千香良 | ○ | 3-2 | 中日 |
1968 | 森中千香良 | ○ | 8-5 | 巨人 |
1969 | 平岡一郎 | ○ | 1-0 | 阪神 |
1970 | 平松政次 | ● | 2-3 | 広島 |
1971 | 平松政次 | ● | 1-2 | ヤクルト |
1972 | 山下律夫 | ● | 3-6 | 広島 |
1973 | 平松政次 | ○ | 3-1 | 阪神 |
1974 | 平松政次 | ● | 1-2 | 阪神 |
1975 | 平松政次 | ○ | 8-4 | 巨人 |
1976 | 平松政次 | ● | 0-1 | 中日 |
1977 | 渡辺秀武 | ○ | 15-7 | 広島 |
1978 | 平松政次 | ○ | 3-1 | 中日 |
1979 | 平松政次 | ○ | 9-0 | ヤクルト |
1980 | 平松政次 | ○ | 4-3 | 巨人 |
1981 | 斉藤明雄 | ● | 1-2 | 巨人 |
1982 | 斉藤明夫 | ○ | 3-2 | 阪神 |
1983 | 遠藤一彦 | ● | 2-5 | 巨人 |
1984 | 遠藤一彦 | ● | 3-9 | ヤクルト |
1985 | 遠藤一彦 | ○ | 12-6 | 巨人 |
1986 | 遠藤一彦 | ○ | 8-7 | 阪神 |
1987 | 遠藤一彦 | ○ | 5-1 | 広島 |
1988 | 欠端光則 | ○ | 2-1 | 中日 |
1989 | 斉藤明夫 | ○ | 4-3 | 中日 |
1990 | 中山裕章 | △ | 5-5 | 中日 |
1991 | 中山裕章 | ○ | 4-3 | 阪神 |
1992 | 野村弘樹 | ● | 4-6 | 中日 |
1993 | 有働克也 | ● | 2-5 | 巨人 |
1994 | 有働克也 | ○ | 4-3 | 中日 |
1995 | 野村弘樹 | ● | 0-4 | 広島 |
1996 | 盛田幸希 | ● | 1-2 | ヤクルト |
1997 | 盛田幸希 | ● | 2-3 | 中日 |
1998 | 川村丈夫 | ○ | 8-0 | 阪神 |
1999 | 三浦大輔 | ● | 5-10 | ヤクルト |
2000 | 川村丈夫 | ○ | 7-6 | 阪神 |
2001 | 小宮山悟 | ● | 4-6 | ヤクルト |
2002 | 三浦大輔 | ● | 1-2 | 広島 |
2003 | 吉見祐治 | ○ | 4-2 | 阪神 |
2004 | 三浦大輔 | ● | 1-3 | ヤクルト |
2005 | 三浦大輔 | ● | 0-4 | 中日 |
2006 | 三浦大輔 | ● | 2-12 | 巨人 |
2007 | 三浦大輔 | ● | 2-3 | 巨人 |
2008 | 寺原隼人 | ● | 2-4 | 阪神 |
2009 | 三浦大輔 | ● | 1-4 | 中日 |
2010 | ランドルフ | ● | 3-7 | 阪神 |
2011 | 山本省吾 | ○ | 5-4 | 中日 |
2012 | 高崎健太郎 | △ | 5-5 | 阪神 |
2013 | 藤井秀悟 | ○ | 4-3 | 中日 |
2014 | 三嶋一輝 | ● | 1-9 | ヤクルト |
2015 | 久保康友 | ● | 2-3 | 巨人 |
2016 | 井納翔一 | ○ | 2-1 | 広島 |
2017 | 石田健大 | ● | 2-9 | ヤクルト |
2018 | 石田健大 | ● | 3-7 | ヤクルト |
2019 | 今永昇太 | ○ | 8-1 | 中日 |
2020 | 今永昇太 | ● | 1-5 | 広島 |
2021 | 濱口遥大 | ● | 7-8 | 巨人 |
2022 | 東克樹 | ● | 3-11 | 広島 |
2023 | 石田健大 | ● | 3-6 | 阪神 |
2024 | 東克樹 | ○ | 4-3 | 広島 |